人はさようならを言うために生まれて来たのではないのか。
まどろみの中を漂っていた曹操の意識は、そう思いたることで急速に覚醒した。
夜明けの冷たい風がより一層思考を明確にする。
しらじらと夜が明ける姿を窓辺の椅子に腰を掛けて眺めながら、思考を進めて行く。
さようなら。と言う言葉はこの世で最も美しい。
なぜならば美とは、この世で何者にも媚びないものだからだ。
この世でもっとも冷酷なものだからだ。
すべてから決別し、切り離し、決然と個々に独立を促す。
さようならという言葉が、だからこの世で一番美しいのだ。
いつしか熱くなった思考はやがて堪らない衝動を引き起こす。
堪らない。今すぐ駆け出して叫びたくなる。
私はあの男にさようならと言うために生まれて来たのだ!
戦も野望をすべてを忘れて叫んでしまいたい。
この嬉しくて、寂しくて、楽しくて、悲しくて、愛しい。その感情のまま吐露してしまいたい―――
「こら、そんな薄着でいるな孟徳」
いつのまにか同じ部屋で寝息を立ていたはずの従兄弟が目を覚ましていたらしい。
彼は声を掛けながら、自分に砲をかけてくれる。
「…何を考えていたんだ?」
自分の表情を見て、夏侯惇が椅子の後ろからぐいと曹操の顎を掴んで上向かせる。
首が反り返るやや厳しい姿勢になりながらも、曹操は視界に入った夏侯惇の姿に笑った。
「なんだ人の格好をとやかく言う前に、お主などはまだ素っ裸ではないか」
「俺のことなんてどうでも良い。それより何を考えていたと聞いている」
「何故こだわる?」
「お前が変な顔をしているからだ」
「変な顔とはな…。酷い言いざまだ」
苦笑しながら曹操は、腕を伸ばして夏侯惇の頬を撫でる。
「…いつかお主に言う言葉を考えていたとうのに」
「俺に?」
「あぁ、そうだ。楽しみにしておれ」
いつか。
いつかお前に贈るとっておきの言葉。
それは別れの言葉。
そして自分がそこにそれまで存在したという証の言葉。
願わくば
お前に贈りたい。歴史に残ることのない自分のただの一人の人間の存在の痕跡。
ただの曹孟徳の生きたしるしを。
夏侯惇の長い髪を引っ張る。
彼は曹操に覆いかぶさり、曹操は上を向いたまま唇を合わせた。
Fin
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美しい言葉
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