冷たい雪の中で一人倒れていたお前。
慌てて抱き起こす。
色のない頬、開かない瞼。息をしない口許。響かない心音。
夏候惇は絶望の中で、己の取り返しのつかない失態を悟った。
彼を、一人で逝かせてしまった。――
□ ■
□
あたりは絵に書いたようなまっさらな雪原。
曹操はその上をのびのびと歩いていた。
計画は成功。
元より人が多くては寝付けぬと言って、側に置く持医を最小限に止めていた。
その上今日はすこぶる気分が良いと彼らを油断させ、今のうちに薬膳と薬を採っておこうと彼らを用意のため下がらせた。
唯一常に側にいる従兄弟には「あの本が読みたい」と言って走らせた。
昔その従兄弟から貰った詩集だ。
彼は曹操がその本を気に入ったことを至極喜んでいたから、二つ返事で気分良く曹操の部屋に取りに行ったのだ。
その瞬間、曹操が倒れてから初めて曹操は部屋に一人になった。
それは部屋を抜け出せる一瞬の隙。
曹操は部屋から抜け出した。
あたりは歯の根がカチカチとなるほどに寒い。
だが曹操の気分は最高に良かった。
後ろには居城、前方には生い茂る森。
地面は真っ白な雪原で自分の足の跡だけが残る。
興が乗った。
目を遠き日に覚えた舞を思い出す。
曹操は舞った。
腕を上げ、腰を上げて軽やかに足をさばく。
手を返し、胸を広げながら曹操は思う。
自由だ。
かつてこれ程までに自由を感じたことはあっただろうか。
供も連れず、一人で歩き、気の向くまま風を感じ雪の上を裸足で歩いて、誰にも見られることのない舞をまう。
今、自分は何者にも縛られて居ない。
人は年を取れば老いるだけだと思っていた。
だがそれは表面上だけにすぎないのだ。
人は死を前にしてこんなにも若返ることが出来る。
それどころか曹操は苦もなく動く体と若々しい精気を身の内に感じていた。
まるで新しい自我の誕生のようだ。しかしそれこそが自分の命が尽きようとしている証拠だということはわかっていた。
朽ちゆく炎の刹那の輝き。
あの男は怒るだろう。
曹操の脳裏に一人の男が思い浮かぶ。
彼がかつてない程憤怒の情を持つことはわかりきっていた。
だが嫌だったのだ。曹操の死を諦めたように穏やかな彼など許せなかった。
悟り切った姿をみせるなら見苦しくも取り乱したお前が見たい。
どこまでも諦めず追いかけて来る、あの男を曹操は愛していたのだ。
こんなことをした理由はとても簡単なことだったのだ。
曹操は彼の知らない自分が欲しかった。
彼の知らない自分があれば、彼は絶対追いかけて来るから。
そして自分は思惑どおり新たな自我を手に入れた。その自我すらもあの男に奪って欲しい。
曹操は笑った。男に対する言い訳と願望ばかりが次々と浮かぶ。
――わしを奪いに来い、元譲……
いつのまにか自分が雪の上に倒れて居た。
倒れた記憶はない。だが現実に体は冷たい白土の上にあった。
急速に意識が薄れていく。
すでに手足の感覚はない。頬に感じる雪は不思議と温かく感じておかしかった。
お前はこれは信頼の裏切りととるだろうか。
ただ自分はお前の取り澄ました顔など見たくなかった。
そう思う自分はきっと寂しい人間に違いなかった。
だが今は。
すべてを脱ぎ捨てて、一人の人間として逝くことが出来る。
とても満ち足りた幸福の中で、曹操の意識は白く溶けて行った。
□ ■ □
曹操を失ってから、夏侯惇は日がな窓際で過ごしていた。
この頃、体から力が抜けてしまったように動かない。
代わりに頭はどんどん鈍く重くなっていく。
どんどん春めいていく景色を眺めながら、ただ無為に日々を過ごしている。
――何故お前はあの時居なくなった。
あの日。曹操に言われて探していた詩集をみつけた時の説明のつかない胸騒ぎ。
かけて戻れば侍医たちが酷く取り乱している。
部屋には居るはずの主はおらず、ただやけに窓の外の雪が眩しいほど白く輝いていた。
あの瞬間のこの身を貫くような焦躁と怒り。
気が狂うような思いで曹操の足跡を追った。
雪原の中でみつけた時の体は、すでに冷たくなっていて、
骸になった、彼の口許は笑っていた。
だがその幸せそうなほほ笑みが、何故かあまりに悲しかった。
彼を一人で死なせてしまった。
夏侯惇の口からかみ締めきれない嗚咽が漏れた。
きっと彼は自分を見つけて欲しかったのだ。
けれど自分は見つけられなかったのだ。
間に合わなかったのだ。
あまりに悔しくて、口惜しくて涙が出た。
その時1羽の鳥が甲高い声でないた。
ふと、夏候惇の思考に初めて疑念が生まれた。
本当にそうだったのか。
あの時に見つけて欲しくて曹操はあんなことを――?
何かがわずかに違う気がする。
しかしその何かがわからない。
夏侯惇は左目を押さえた。春の日差しがやけに眩しい。
唐突に後頭部に激痛が走った。
何ごとかと目をあければ床に自分が倒れて居る。
体が寒い。死の縁で感じる寒気に、夏候惇は自分の死期を悟る。
ここで死ぬのか。こんなに中途半端なまま。
悔しさと諦めがいりまじったまま視線をあげれば、倒れた拍子に膝で読んで居た詩集も落ちていた。
あの日曹操にみつけてくるように言われていた本だ。
そのたまたま開いている本の一節に目を止める。
瞬間、夏侯惇はすべてを納得したようにほほ笑んで安らかに眠った。
追いかけよう。お前の体ではなくお前の魂を。
たとえ死した後でも。
Fin
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春告げの鳥
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