操がそこまで足を向けたのは気紛れだった。
ただ唐突に蕩けるような甘い匂いがした。
夜もふけて、闇のような黒い帳が落ちている時刻である。
その黒がりの中を一点を操は見つめる。
その視線の先に高層マンションを見つけると、操は軽やかに跳躍した。
黒いコートを翻る。人ならざる跳躍力でマンションの欄干を使って昇っていく姿はあまりにも早くて、誰の目にも止まることはない
やがて窓が開いたベランダに降り立つ。
カーテンが風で揺れている。
「なんとこれは驚いた」
操ベランダの枠に寄りかかって、面白そうに部屋の中を眺める。
灯りは無く、部屋は暗い。
「この香しい匂いは、我らが宿敵の狩人のものか」
部屋にはむせ返るような血の匂いが充満していた。
その元凶である人物は部屋の隅で膝と肘をついて呻いている。
操はその様子を見て、目を細める。
「――恋人を失った悲しみゆえ、狂っておのが右目を抉ったか」
その声にうずくまっていてた男が初めてピクリと反応した。
驚きで見開いた目は左目しかない。残りの眼球はゴロリと血まみれになって床の下に落ちている。
驚愕の表情を浮かべる狂人に操は優しく教えてやった。
「血の香りは万の言葉よりも雄弁に事実を語る。そちら人間には理解出来ぬだろうが。」
「……う……あ…」
説明しても意味をなさぬ言葉しか吐かない狩人に「無駄であったか」と操は少し嘆息する。
男は驚愕のあと弛緩しきった呆けた表情を晒した。
操はしばらくその様子を観察していたが、やがて親指の腹をペロリと舐めた。
「…気に入ったぞ。」
吸血鬼はニヤリと笑う。
「そちの血を気に入った。それは儂が嗅いだ中でも最も魅惑的な匂いだ。その血潮儂が側で愛でて守ってやろう。」
パサリと吸血鬼は黒いコートを脱ぎ捨てる。高く襟の立ったコートから現れたのは、色の白い秀麗な面差し。
小柄ながら引き締まった体躯。さらさらと流れる黒髪に、目尻が深い鳳眼。
口許は綺麗に弧を描いている。
その姿を見た狩人は膝立ちになる。
クククと操は艶然と笑う。
「どうだ。少し似ているだろう?」
人間に首筋を捧げやすくするために、吸血鬼の姿はその人間にとって最も愛している人物と似ているように見えるという。
従ってこの目の前の狂気に犯されている男には宿敵である吸血鬼が愛しい亡き恋人の面影を見ているはずだ。
狩人の本能的な動きななのか近付くと、男が銃口を向けて来た。
吸血鬼を殺すことが出来る純銀の弾丸を放つ凶器。
鈍く光る銃創に、操は目を細める。
「…なるほど。そちの恋人を屠ったのは、我らが同胞からか。――撃ちたければ撃てば良いぞ」
――この姿の儂を撃てるものならば、な
自信満々に言い切って、速度を緩めることなく進む。
「儂の名は曹操。吸血鬼のしきたりに従い『操』と呼ばれておる。そちも『操』と呼ぶが良い」
「…あ……あああぁぁぁぁあ!!」
笑いながら話かける操に狩人がガタガタと震える。
近寄るなと訴えるように、男の首が激しく横に振られる。
暗がりで青く光る瞳、白く尖った耳、口許からは鋭い牙。人ならざる姿は人間に恐怖を誘う。
操はすぐそばまで狩人の側まで近付くと、ふわりと抱き締めた。
「よしよし。そんなかに寂しかったか。これからは儂がそちを慰めてやろうぞ」
「………っ…」
しばらくして狩人の手から銃が零れ落ちた
操は抱き締めながら男の硬い髪を撫でてやる。
「安心するが良い。儂ら吸血鬼は人間のように冷たはくないぞ。無理に立ち直れなどとは言わぬ。」
――望むのならば望みのまま優しき闇に墜ちよ。
耳たぶをはみながら囁かれた言葉に
狩人の遺された左目から透明な涙がこぼれた。
To be continued..
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08.8.10
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