「仕事の都合で俺は二週間この家を留守にすることになった」

「そうか」

唐突に言われた言葉に、操はパタンと本を閉じた。
当然のように出て行こうとする操の襟首を夏侯惇はがしりと掴んだ。

「何処へ行く」

「何処へだと?」

自分の領地の館に決まっている。
そう言おうとする前に夏侯惇に遮られた。

「待っていろ。迎えがくる」

数刻後、本当に迎えはやってきた。
そして迎えにやってきた男――夏侯淵は操を一目見て驚いた顔をした。

「本当にヴァンパイアだなぁ」

それに対して操といえば、上から下までじっくりと夏侯惇と夏侯淵を見比べている。

「…似ておらんな」

率直な操の感想に、夏侯淵は朗らかに笑った。

「俺は惇兄と違って、ガキん時からメタボ体系だったからなぁ」

人好きする笑顔。
その笑みを見て操は彼を好きになれそうだと思った。



*****


習慣とは実に恐ろしいものだと操はしみじみと感じた。
夏侯惇と暮らす内に操は一日一食――吸血行為ではない食事――を必ず取るようになっていた。
しかしその日もまた食卓にあがったお椀の中身を見て、操はがっかりした。

「またごった煮か…」
「雑煮だってば。ぞ・う・に!!」

エプロンを着た夏侯淵が訂正する。
操は恨みがましそうに彼を見た。

「もう五日目ぞ…これを見るのは」

つまり操が夏侯淵の家に世話になり始めてから五日目である。
当然正月の三箇日はとっくに過ぎている。
夏侯淵と暮らしている内に操は、いかに夏侯惇がマメで家事能力に優れた男だったかわかった。
夏侯惇ならばこちらがリクエストしなくても毎日違う料理を食卓に並べるし、部屋を腐海の森にすることもない。
その彼の従兄弟であるはずの夏侯淵は混沌とした部屋の中でからりと言い放った。

「良いじゃねぇか。体に良いんだし。あっ、何だったら操が作ってくれたって良いんだぜ」

操はむすっと黙り込んだ。料理なんて出来る訳がない。
操のわかりやすい反応に、夏侯淵が大きい口を開けて笑う。

「ほらほら、餅をいっぱいやるからよ。機嫌直せって!」

「あ、やめよ!……ぁぁ…」

淵を止められず餅だらけになった椀の中身に操の悲痛な声がもれた。
餅は食べるのが面倒だからあまり食べたくないのに…ぶつぶつと操が文句を言っていると、来客をつげるチャイムがなった。
時刻はちょうど日付がかわるくらい。普通の人間が尋ねてくるには遅い時間だと操はいぶかしく思ったが、夏侯淵は何の警戒心も持たずに玄関の鍵を開けに行った。

「夏侯淵殿の華麗なる蝶。儁乂只今参上しました!」

聞き覚えのある声に操は驚いた。
声の主は操と同じ種族でかなり変わった性格で知られる――

「張郃か?」

「まぁ操殿!お久し振りです」

「お主何故…」

此所に?と操が聞く前に、もう一人の声が遮った。

「おっ儁。また今日もなんか持ってきてくれたのか?」

「えぇ!!麗しの夏侯淵殿のためにスペシャルにデリシャスなゴールドスイーツを作って参りました!!チョコはクーベルチュールチョコレート、小麦粉はブルターニュで選びぬかれたものを使い、フルーツは」

郃がくるくる舞いながら答える。
操の質問にはしばらく答えてくれそうになかった。



旭が昇る数刻前になって郃が暇乞いをしたので、操は彼を送っていくことを申し出た。
郃はその申し出を「美しくて賢い操殿に送って頂けるとは光栄なことですね!」とまたくるりと華麗に舞って喜んだのだった。
二人が歩く道はうっすらと夜明けの霧が掛かっている。

「郃よ。お前のように才ある男はあの馬鹿紹にはもったいない。私の下ならば今よりもっと輝けると思うが、どうだ?」

「ふふ…噂の操殿の人口説きですね」

「貴様には私が口説く価値があるのだ」

「それは光栄です。お話は考えさせて頂きます」

「……二つ名があるのだな。郃」

吸血鬼に二つ名の慣習はない。
それでも彼が二つ名を持っていることは即ち――。

「えぇ。遠い遠い昔に私は人から吸血鬼になりました!永遠に老いることのない吸血鬼に自ら望んでなったのです」

郃は両手を大きく広げて胸を張った。

「…ですが、何故でしょうね。この頃人間が…年を重ねて老いていく人間が、とても美しいと思うことがあるのです。どこまでも感情的に刹那的に生きて、愚かしい罪を犯す人をみていると私は何かを喪失してしまったような感覚を覚えるのです」

「淵に惚れているのか?」

本当は答えなんて聞くまでもなかった。
郃が淵を見る目は明らかに色恋のそれだ。だが一方の淵は気付いてないのだろう、彼から郃に注がれる視線はあくまでも親愛のものだった。
郃は何も言わず、ただ淡く笑った。




帰宅すると、意外なことに夏侯淵はまだ寝ていなかった。
ソファにだらしなく座り、ちびちびと酒を呷っている。
操も酒を飲もうと手を伸ばすと、おもむろに夏侯淵の口が開いた。

「あいつとは最初敵同士だったんだ。何故かいつもあいつとばかり遭遇して、何度も殺そうとして、逃げられて…まぁ今思えば縁って奴だったんだろうけどよ。そうこうしてうる内に、どうしても俺はあいつが悪い奴には思えなくなって、気がついたらダチになっちまった。だから――俺は狩人をやめたんだ」

操は驚いた。
狩人はやめることが出来るのか。それならば夏侯惇も――そう思っていたのが顔に出たのだろうか、夏侯淵がいつになく真剣な面持ちでこちらをみていた。

「惇兄は駄目だ。狩人をやめられない。夏侯家の嫡男だから。惇兄が背負っているのは俺なんかよりずっと重いんだ…」

操の顔が赤くなった。
見透かされたことより何より、自分のエゴのために夏侯惇に狩人をやめて欲しいと思った自分を浅ましいと感じたのだ。
夏侯淵は操の様子を見て頭をかいた。少し困ったように笑う。

「…操には感謝してるんだ。本当に。あの時の惇兄は絶望していて…俺なんかの声は全然届かなかった。どうにかしたくても俺にはどうすることも出来なかったから…」

淵の言葉に操の胸がズキンと痛んだ。
従兄弟の夏侯淵の声すら響かない強い絶望。それは夏侯惇がかつての恋人を深く深く愛していたことの裏返し。死者の影がまた操にちらつく。
胸の痛みを覚えるたびに思う。自分では彼に一生勝てないかもしれない。
沈む操に気付いているのかいないのか、夏侯淵は操の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。

「ありがとうな。操。惇兄をこれからよろしく頼むよ」

暖かく朗らかな夏侯淵の声。
言い様のない寂しさを覚えながら操はこくりと頷いた。


傍にいる。
例え夏侯惇の一番が誰であろうと。
自分が彼の身代わりであろうと。
傍にいて、一緒に生きよう。
それこそが生者の特権。

そして
願わくば夏侯惇の死を看取るのは自分であれば良いと、
操は切に願った。



Fin
09.2.1

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