豊久は遠くを見つめた。
だが、その目に薩摩を捉えることは出来ない。
関ヶ原の合戦後。
目覚めてすぐに伯父に言われた言葉は「井伊直政殿のところに行け」というものだった。
訳がわからぬまま屋敷の門を叩くが、直政は戦後処理に追われていて、結局彼と対面が叶ったのは宵の口を過ぎた頃だった。
「俺は鬼の一族の末裔だ」
部屋に入って来たなりそんなことを言い出した彼に、豊久はあからさまに怪訝な色を示した。確かに彼の通り名には鬼がつくが、それは彼個人が抜きんでて勇猛だからつけられた名であって、井伊の一族とは関係がないはずだ。
何も聞いていないのだな。直政は少し笑って、自分の指を微かに切った。
「嗅いでみろ」
血が伝う指を出されて、豊久は仕方なく前に進み出た。
滴る血の匂いを嗅いでみれば豊久は驚きに身を引き、直政を見る。
微かに鼻孔をくすぐったそれは錆びた鉄の匂いではなく、花の蜜のような匂いだった。
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