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プロローグ



落とされた海は身を切るように冷たかったが、胸では灼熱の憎悪が燃え滾っている。

 少年の体は病んでいた。
 


周りに持て囃されていた容姿は、無残にも病によって爛れて崩れ、声もしわがれ、足腰も弱くなると、大人達は陰でこそこそと話を始めた。聡明な少年にはそれが何のための密談かすぐに察する事が出来た。だが頭では理解出来たが、心では否定したがっていた。
 だって、あれ程自分を自慢にしていた両親が、兄弟が、そんな簡単に自分を捨てる訳がない。病になる前に決まっていた、城仕えの職を誰よりも喜んでくれたのだ。
 確かに家は貧しい。だが呆れる程人の良い両親が、子供を捨てるなど、大それた事を出来る筈がない。

 しかし希望はあっさりと砕かれた。
 


寒い、寒い、冬の日。


少年は血の繋がった者達に捨てられた。


ごめんね。ごめんね。と謝る彼らが陰で自分を呼んでいた名前を知っている。


化け物。


それが二つ目に両親から与えられた名前であった。


 


陽光はどんどん遠くなって、あたりが闇に染まっていく。


 


縛られ、身動きが出来ない少年は、ただただ考えていた。


 


あれほど幼い頃に自分を可愛がっていたのは、何だったのだろう。


毎年誕生日や行事の時に振舞われた、いつもよりちょっと豪華な料理。


ぎりぎりの生活の中で揃えてくれた勉強道具。


祭りの時に、迷わぬように繋がれた手。


少年の名前を呼ぶ親愛に満ちた優しい声。


 


それらは病によって、すべて奪われた。


 


愛されていたのは、外側が人らしかったから。


将来役に立つように、食べさせられていたに過ぎないのか。


 


それが短い生の中で得た、真実。


 


だが、何故こうも一方的に奪われなければならない?


学校では「人は与えたものを与え返さなければならない」と習った。都合の良い理屈だと思ったが、普通の子供に与えられるべきものを与えられていた時は、それも仕方ないかと了承していたのだ。

 しかし、病に罹って周囲に与えられたものは、痛み、苦しみ、屈辱。

 生きる権利すら奪われて、このまま自分は諾々と死ぬしかないのか。

冗談ではない。

 呪ってやる。
 生きる権利を奪い返してやる。

 自分だけを突き落とし、抹消しようとした人を、世界を、憎んでやる。
 自分よりもっと不幸にしてやる。

 憎悪が中から噴き出し、体を包む。
 この時、少年は人である事を『踏み越えた』。
 彼はしばらく世界の澱みとなって、海底に漂った。


 ……とろとろと意識が溶ける。思考は薄らぎ、憎しみだけが強くなる。薄らぐ意識の片隅で男はほくそ笑む。自己の輪郭がぼやける程に、人ならざる力が満ちていくのがわかる。後もう少し、もう少しで、数多の不幸を振りまく事が出来る。


 


「きさま! ひでよし様のくにをけがすきか!?


 


キンキンと高く響く声にうっそりと目を開く。だがすぐには声の主を見つける事ができなかった。世界の闇となって巨大になった姿に伴い広がった視界にとって、その存在はあまりに小さかった。


上半身は人間で下半身は魚。


絵本で見たことがある――人魚だ。


だが絵本と違って、グラマラナスな胸がない。色気がない。長い髪もない。代わりに、まろやかな頬、小さな鼻と口、すとんとくびれのない土管のような胴体。


子供の人魚なのだ。魚でいう稚魚。


そして子供にしてはやけに鋭い眼差しで睨んでくる。さらに生意気な事に、手には小さい剣を握っている。
 男は「ヒッ」と笑った。勇ましい、恐ろしい子供だ。「化け物」にただ一人向かって来るなど正気の沙汰ではない。
 子供はムッとしながらも何故か剣を鞘に納めた。


馬鹿め。簡単に警戒を解くとは。馬鹿な子供は化け物に食べられるのだ。子供の背後に闇が忍び寄る。獣のように闇が口を開き、子供を一呑みするその寸前。


「さみしいのか?」


その時、闇に姿を変えていなければ、男は間の抜けた顔を晒すことになっていただろう。


子供は後ろを振り返って、今まさに自分に襲いかかろうとした闇に気づいたようだ。子供特有の無警戒さでぺたぺたと触ろうとする。


「や、やめぬか!」


襲おうとした本人が慌てて、闇を子供から遠ざける。そして、あまりに久方ぶりに自分が声を出した事に驚く。つい咄嗟に言葉が出てしまったのだ。


「あ、シダレヤナギ……」


どうやら闇が取り込んだ筈の草木の一部が露出していたらしい。ふわふわとそよぐそれが子供の関心を呼んだようだった。


くるりと子供が向き直る。その拍子に銀の髪がさらりと揺れ、髪の下から翡翠の瞳が覗いた。とても……とても綺麗な瞳だ。


「わたしとともに来い。ひでよし様と、はんべえ様におゆるしをもらうぞ。ともにこのうみでくらすゆるしをこうのだ」


男は予想外の事に絶句する。答えが返って来ない事に焦れた子供が詰め寄ってくる。

「こわくないぞ! だからいっしょにいくぞ! ぐずぐずするな! はやくこい!」


拙い言葉で言い募って、子供は闇の塊に手を伸ばす。


 


 


空振るはずの小さな手は、しっかりと包帯だらけの手を掴んでいた。