日輪が焼け落ちかけて、部屋は燃えるような朱に染まっている。
連休中の静まり返った研究棟で、元就はキーボードを延々と叩いていた。
眉を寄せ、目をしばかたせる。
疲労は濃く、いつもより五感が鈍っていると認めざるをえない状況。
だから鋭敏な聴覚もその時はまったく機能しておらず、それを捉えることが出来なかった。
「あれ?元就なんで居るんだ?」
その声と仕切りからひょっこり現れた銀髪に、元就の心音は確かに跳ね上がった。
即座にそれは突然だったせいだと理由づける。同時に己の迂闊さを呪う。
いつもなら廊下を歩く音も、扉をあける音も気づけたはずだ。
「誰が名前を呼ぶ権利を渡した?」
動揺を微塵も感じさせないように冷たく睨む。
建築学科の生徒はおろか、同僚までが竦みあがる眼差しを元親は軽々と受け止める。
「良いじゃねぇか。二人っきりだし。なぁ?」
悪びれもせずに言う元親を、さらに冷たい絶対零度の瞳でみる。
「立場を弁えろ長曾我部。我は教師で貴様は生徒。いわば我は生産性豊かな雌鳥で、貴様は頭にも尻にも殻がついたひよっ子。つまり我は王で貴様は下僕だ」
「相変わらず綺麗なツラに似合わずひでぇ言葉」
担当教授の流れるような滅茶苦茶な理屈に、元親は肩を竦める。
「それよりも何故貴様が此処にいる?」
「週明けに図面提出しろって言ったのあんただろ?だからバイトあがって直行よ。…あっ、ちょうど良かった。ちょっと見てくれよ」
そう言って一度自分の机に戻って持って来た、元親の図面に元就の表情も綻ばすにはいられない。
「ふむ…デザインは子供が書いたように幼稚だが、独創的線よ。面白い」
元就の評価に「だろー?」と鼻の下を擦って、元親が胸を張る。
「が、この柱、断面図と平面図で計算が違っている」
「…あー。やっぱりな。だから歪んじまうのか」
――こういう所だ。
元親を危険視しながら、研究所に入ることを許してしまった理由は。
大ざっぱに見えて緻密な計算も意外と得手で、創造力もある。しかし何より元就が彼を評価しているのは
空間認識能力。
図面を見ただけで、頭の中に屋根の高さ、柱の位置、壁の厚さ、細かい地面の傾斜角度までありありと実物をそっくりに構築する能力に至っては、この生徒は自分より上だろうと元就は思っている。
その能力の高さは、内気であったという彼の過去が因であるのかは精神科医ではない元就にはわからないが。
「で、先生の方は何してるんだ?休み中は海外出張のはずだろう?」
「海外出張は昨日までだ。今日は今日までに片付けたい仕事のために此処に来ておる」
「でもって足下にトランクケースがあるってことは、空港から直行で来やがったな。信じらんねぇ。この馬鹿。ワーカーホリック」
「おい、何か言うたか。下僕」
「いーえ王様。それで残った仕事は何処にあるんですか?」
「そこだ」
「あーあのブラックボックスねぇ」
棚の上の引き戸は通常ブラックボックスと呼ばれ、未書類が安直される場所であった。それに近づく元親に声をかける。
「待て。そなたよもや我を手伝う気ではなかろうな?…馬鹿か。自分の課題はどうする?」
「馬鹿でも何でも手伝うぜ。あんただって帰りたいんだろ?」
元就は珍しく言葉に詰まる。
平素なら自分の仕事を他人の手に委ねるのは嫌うところであるが、早く子供の顔を見たいと思っている子煩悩な元就にとって元親の申し出は甘い誘惑だ。
連休の最後の明日くらい家族で出かけたいという気持ちもある。
此処は好意に甘えてしまおうかとも思う。だが、この男と同じ部屋で二人きりで過ごすのかと警鐘が鳴る。
この男は危険だ。
初めて出会った時の、生存本能まで刺激するような強烈な危機感。
それは薄れることなく、今も胸を疼かせている。
だから元就は、出会ってから六年間手放しで警戒を解いたことは一度も無い――。
考えに没頭してしまった元就は、書類は至極不安定な状態で積まれていたことをすっかり失念してしまった。
「…うわっ!」
叫び声と共にどさどさと書類が落ちる音がした。
嫌な音だ。元就は「迂闊…」と呟くと供に増えた仕事に溜め息をついて額を押さえる。
しかし元親の声に顔色を変えた。
「…痛っ」
左目を押さえて元親がうずくまる。
元就は慌てて駆け寄る。大学生といえど教師として親から子供を預かっている身なのだ。
傍に屈んで「どうした?」と問えば、眼帯がと元親がいらえる。紙の束に当たってちょうど眼帯が飛ばされてしまったのだろう。
眼球は大丈夫なのかと元親の手を払って覗き込めば、元就は息を飲んだ。
真紅の瞳。
虹彩は溶けるような薄紅で、
中心は吸い込まれるような鮮やかな血の色。
ぞくりと元就の背筋に悪寒が走る。
聞いたことがあった。
その光に弱い瞳のせいで、子供の時は苦労したと。
瞳の色のせいで鬼子と呼ばれたことがあったと。
今ならば魔性と恐れた人間の気持ちが分かる。
だってこれは、こんなにも凶々しくて、
こんなにも美しい。
音を忘れてしまったような静謐な世界で、ただ元親の声だけが響く。
「――元就」
…あぁ、駄目だ
逃げなくては、逃げ、なくては。
頭の片隅で騒ぐ思考と裏腹に、硬直して動かない。
ひた向きに己を追うその熱の篭った視線に
何度そんな目で自分を見るな。
お前は自分にとって恐怖の対象でしかないと
そう言いそうになったか数え切れない。
頬を元親の指が辿る。
茜の空の色を吸い込むように、赤眼が一層輝く。
さながら紅蓮の炎のように。
滾る血液のように。
あぁ駄目だ。今は、今だけは
拒絶することが、
出来ない。
近づく頬に元就は心の底から震える。
必死で顔を背けていたものが見えてしまう。
その指の暖かさ、瞳の奥の熱に焼かれてしまうだろう。
気づきたくなかったものを気づかされて、
きっと、自分は
ひざまずいてしまう。
怖かった。
怖かったのだ。
その恐怖が身を滅ぼす危険を持ちながら、極上に甘いものをを孕んでいたのを知っていたから。
一度屈してしまえば決して抗えない。
喰われてしまう。
どこまでもどこまでも、喰らいつくされてしまうだろう。
未知の恐怖に怯えながら、こうなることは最初かから何処かわかっていて
やっと、収まるべきして収まったことに安堵している自分がいた。
落陽の中、二つの影が一つに重なった。
Fin
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