10.



ふるふると震えていた枝が
重さに耐えきれず、とさり、と枝は雪を落とした。



控訴の意思はない。
伝えると、弁護士は安堵の息をついた。

懲役八年。
刑務所は拘置所よりさらに統制された場所だった。自由を美徳する元親にとっては想像以上に辛い環境で八年になる。
実際元親の中で、そのことはまだ整理できない。元就の家族への罪悪は十二分に感じているが、何かが足りないという意識が常につきまとっていた。
だからと言ってこれ以上法廷に、元就を晒す気にはなれない。


「では私の大きな役目はこれまでです。力が及ばず申し訳ありません。」
「いや、あんたは良くやってくれたよ」
「それであの…。一つ宜しいですか?」
「?」
「…毛利さんが死んでから、自分も死のうとは思わなかったのですか?」


自分なら愛した人を殺した後、怖くて命を断ってしまうと言う弁護士の言葉に、元親はポカンと口を開けた。きっと酷く間抜けな顔をしているだろうと思いつつ直すことが出来ない。
――後追い自殺
そうだ。夫を、恋人を、友人を殺して自分も死ぬ。死に切れないまま警察に出頭するなんてありふれた話だ。
殺人を犯した人間のほとんどの頭によぎるだろう選択肢に、今、元親は初めて気がついた。

一ミリもそんなことを考えなかった。

元親は己の図太さに声を立てて笑った。
それは久しぶりの、彼らしいカラリとした笑みだった。






政宗の顔を見るのも、随分久しぶりな気がする。

証人尋問直後、元親に罰の悪そうな顔を見せて以降、ななかなか顔は見せなかった。
本人は何も言わないが、やはりあの後マスコミに苦労しているのだろう。
だからと言って、連絡が途絶えていたわけではない。本人の代わりに、片倉が伊達の手紙を持って面会にやって来る事がしばしばあった
わざわざ手紙を郵送しないで片倉を使いに寄越すのは、その方が元親を楽しませるのを知っているのだろう。
事実、苦み走った男前である片倉がハイテンションな政宗の文面を、生真面目に読み上げるのは腹が捩れる程おかしい。

今日は偶々暇だったと訪れた友人の、その口から零れた単語に元親は驚きを隠せない。

「遺稿?」

政宗は肘をつきながら、あぁと答える。

「なんでも院生が毛利の机を片付けている時に出てきたんだと。それを見た大学関係者は仰天。すぐさま海外の学会に送りつけたら、こちらも大騒ぎ。なんでも新建築法の方法論とやらの大層noveltyな論文で、毛利の名は建築史に残すこと間違いないらしい。」

すでにその情報は学術誌をはじめ、ワイドショーも賑わしているらしい。

「その論文が今度出版されることになっているんだが、出版社の方もどれだけ売れるのかわからねぇって話だ。中も優れているが、今は…」

元親とのことがあるから、話題を呼んで売れるというのだろう。

「笑っちまう話が、毛利は日本語と英語の同じ内容の論文をちゃっかり拵えてたって話だ。あの野郎自分の論文によっぽど自信があったんだろう。まぁそのおかげで難なく国内外で出版出来るって訳で……その印税で毛利の家族は食いっぱぐれることはなくなった。って訳だ」

それが言いたかったらしい。

元親は、そうかと言いながら奇妙な感覚に陥る。
まさか――

「あぁ、それとな遺稿と一緒に設計図も発見されたらしい」

「設計図?」

元親は驚いた。驚きの度合いで言えば、遺稿より大きい。
設計図なんてもう二度と書かない。書くアイディアが浮かばないと、彼は言っていたのに。




政宗との面会を終え、独房に戻る。
眼帯の調子が悪く、座り込んで調節していると、郵便が届けられた。
定型外の封筒はずっしりと膨らんでいる。首を傾げながら、差出人を見て、目を見開いた。

差出人は――毛利隆元

元親はすぐさま土下座した後に見た学生服の少年を思い出した。
どこか心配そうな、物言いたげな瞳を向けていた彼。彼が元就の長男であることは、あとからすぐ気づいたが、どうして元親にそんな瞳を向けるかわからなかった。
恨み言の手紙にしても厚すぎると思いながら、すでに封を開けられて(中身はすべてチェックされている)封筒の中から出てきたのは、生前元就が愛読していた建築書であった。
訳がわからずもう一度封筒の中を見るが、説明してくれる添え状が入っている気配はない。
パラパラと本をめくってみる。滅多に他人を褒めることがなかった元就が、手放しに賞賛していた建築学者。少し早口になりながら、微かに顔を綻ばせた彼の姿を思い出す。
ページの真ん中あたりに、折り畳まれた紙が挟まっていた。

設計図だ。

政宗の話を思いだしながら、元親は製図を窓にかざす。
独房は暗くてよく見えない。


日の光に照らされて隅々まで明らかになった図面に、元親は言葉を失った。





これ以上完璧なものは見たことがない。
完全なるシメントリー。


端の端まで高度な計算が行き届いていて、


もうこれ以上何も加えることは出来ないし、減らすことも出来ない。


元就らしい硬質鋭美な建築に、優美さも加わって


背筋が震える。

初めて見た元就の設計図より、それはより完成されていた。





その時、元親の弛んでいた眼帯がしゅるりと解け落ちた。

瞬間、色素の薄い紅眼を日の光が強烈に射抜く。
うっ、と呻いて目を瞑る。


瞼の下で火花がはじける。


弾けた火花が細かい粒子となって




白く、白く、白く――













窓は一面ガラス張りで、外から差し込む日光をすべて建物の中に流し込む。
光を受けた床は、眩い程白く光っていて、目が霞む。

元親は気がつけば、白い建物の中にいた。

何故、とも、どうして、とも思わない。
この建物を元親はすでに知っていた。
廊下を進む足に迷いはない。何処にいけばよいかは、すでに頭の中に入っている。
こんなにしっかりと床の感触を感じたのは久し振りだった。


やがて、視界が広く開ける。

太い柱が立つ、エントランスホール。
高く、高く取られている天井は透明で、床に光の絨毯を築く。


「これはお前と私の子だ。製図など、もう二度としないと思っていたのに、お前と馴れ合ったせいで、こんなものが生まれてしまったわ」



広いエントランスホールの真ん中に男が立つ。後ろを向いた彼の茶の髪が、日差しに透ける。



「…やれやれ、こんな所まで来てしまうとはな。わざわざ我の言葉も残して行ってやったというのに。まったく実の息子達より手かがる。仕様のない子鬼よ」


元親は口を開く。
胸が震えて、喉が詰まってしまって、なかなか声がだせなかった。


「元就」



彼が振り返る。その顔は微笑んでいて、普段の顔は冷たいくせに笑った顔は意外と穏やかで人間臭いと、初めて知った日を思い出す。



「なんと間抜けな面だ。我を恨めとあれほど言っていただろうに。そうすればラクになれるのに馬鹿な奴だ。…法律は先人達の努力が重ねて作り出した妥当な物差しだ。だがそれでは、我らの関係を裁くことは出来ない。どうせ根暗のお前のことだ、まだ判決についてウジウジ悩んでいるのだろう?だから代わりに我が、お前の罪を言い渡してやろうぞ」


元親の口から、ほっと微かな笑みが漏れた。
テープですまないと謝った彼が、今から元親を裁くというのが可笑しかった。


彼は再び背を向けて歩き出す。
元親もゆっくりと後を追う。


「お前は極悪人だ、元親」


エントランスを抜けて再び広々とした廊下にでる。
ガラス張りの壁から外の木々が見える。
木々は青々として、その信じがたい程の瑞々しさに元親は目を細めた。




「お前は我を変えてしまった。平凡でつつがなく暮らしていた我を極彩色の世界へ連れ出してしまった。

高く、高く悦びに舞い上がってしまった我は地上への帰り方を忘れてしまう。
お前との時間と、家族の時間。その天と地との高度の差に罪の意識が日毎強くなっていく。その重さに我は耐えることは出来なくなってしまった…。だからといってお前を手放すことも、家族を捨てることも出来ない。

お前は我に見せてはいけないものを見せてしまった。昇りつめた果てに殺される。その夢を。…快楽に貪欲になった躯はより上へ、上へと際限なく快楽を求めてしまうものだ。お前が責めて責めて、そのせいで我の中の獣は暴れ出して、もはや我自身にも手に負えなくなってしまった」




歩いている2人の距離は、三メートルほど離れている。
もし彼にもう一度会えたら、飛びついて離れないだろうという予想とは裏腹に元親は元就の後ろを黙って歩く。


もしかしたら、ずっと自分達の関係はこうだったのかもしれなかった。
元親が手をとってリードしているように見えて、本当は元就の背を追いかけてついていく。


前を歩く白いシャツが鋭い程、眩しい。




「お前の罪は、我を幸せにしすぎたことだ」





――すとん、とそれは元親の胸に収まった。
判決時に感じた反発が嘘のようだった。






「日毎快楽が芯を焼いていく、お前の快楽に火だるまになる。お前は悪い悪い男だ。我をこんなにも変えてしまって。こんなにも悦くしてしまって。人が人を不幸にするより、人が人を死にたくなるほど幸福を与える方が大罪なのだ。お前は極悪人だ。

それに比べれば我を殺したことなど、小さな購罪にすぎない。それほどお前の罪は途方もなく大きい。――だからお前はこれからもっと罰を受けなくてはならない。」



階段が見えた。


何段あるのかわからない。
途方も無く高い階段を、するすると彼は昇っていく。

元親も後を追おうとした時、彼はくるりとこちらを向いた。
階段下の元親を見て笑う。情事の時ですら見せたことの無いような極上の笑み。


まるで最後のパズルピースをはめ込むような。






「お前は其処にいる間、ずっと我のことだけを考えていろ」





其処に。







ぐるりと白い世界が立ち消えて

灰色の牢屋に戻る。
開放感の欠片もない四角い箱のような部屋。

元親はそれから長い間、無言で中空を見つめた。


「……あぁ、わかった」


――八年は長すぎると思ったが


「短すぎるくらいだったんだな…」


髪をかきあげて、ゆるく笑う。

一人の男を幸福にしすぎて狂わせた。地面に落ちれば、這い上がれるが、
天に高く舞い上がってしまえば、そのままどこまでも際限なく舞い上がってしまうか、墜落するか、いずれでしかない。

今、初めて元親は、心から刑を受け入れる。
最初から元親を真に裁けるのは、彼しかいなかったのだ。
他でもない元就が与えた刑ならば、誰よりも従わなくてはならない。


そして確信する。

すべては元就の計算の内であったと。

元就は幸せで幸せで、その中で一番の幸せが欲しかった。元親を独占したかった。

元親に殺されたことも、元親が今此処にいることも、遺稿が発見されたことも、全て偶然ではない。
彼の名声は、世を騒がせた醜聞と共に語りつがれる。
愛した男に、全身で愛されている最中に殺された天才として。元就はそんなところまで元親を放さない。

元親は彼に選ばれた殺人者だった。



気がつけば元親は、元就が引いた線の上で踊らされ



彼が築いた、真っ黒な迷路の中に閉じこめられていた。


たった今目の前に現れて、ガチャリと最後に鍵までかけていった。


ぺたりと床を触る。

あぁ,
とても冷たい。


これは元就の肌だ。彼の最初で最後の肌だ。


汚れた灰の壁も、


黒い鉄格子も、



すべて、すべて元就が造ったものだ。




…わかったよ。元就



お前が望むなら、此処でお前とだけと過ごすよ。



お前が築いた、美しい程何もない







この、愛の流刑地で。







Fin





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