姫は縁側で溜め息をついていた。
数刻前、島津の当主である義弘が尋ねて来た。
あいにく豊久が外出中だったため、姫が応対したのだが、その際に言われた義弘の言葉にすぐ答えることが出来なかった。

「豊久と上手くいっておるか?」

姫は一瞬だけ言葉に窮した。しかしその一瞬だけで義弘には充分だったようで、姫が取り繕う前に

「さようか」

と言った。

「あれも薩摩の男ゆえ武骨でな。器用とは到底言えぬ。だが冷たい男では決してないのだ。そなたも苦労しているだろうが、あれの良い所を見つけてやって欲しい」

「お心遣い感謝致します」

姫は頭を下げた。
義弘の手から飛び降りた鬼ぼんたんが姫の膝をぽんと叩いた。どうやら自分は猫にまで慰められてしまったらしい。
姫は頬杖をついた。裏山での一件以来、ますます豊久が冷たくなったのも気がする。
婚礼から一か月もたつのに、ろくな会話も交わしてなければ、二人はまだ初夜を迎えていないのだ。
伽の相手は武家の妻の重要な役割の一つ。だが姫にその役が与えられることはない。
婚儀からわずか一か月にして離縁の危機である。褥で向けられる背中に不安と焦りが募る。
彼は冷たい人間ではないと言う義弘の言葉と、「私は随分と薄情な人間を妻にしてしまったようだ」と言った時の彼の瞳の冷ややかさは相容れない。
もし義弘の言葉が真であるとすれば、私は何かを忘れているのだろうか?

その時眺めていた庭で子供の高い声が響いた。

「いたっ…」

見ると小さい子供がしゃがみこんで泣いている。その子供の兄と思わしき少年が慌てて駆け寄って、子供をあやす。

「馬鹿だなぁ。栗を素手で拾うなんて痛いに決まってるだろう」

慌てて腰をあげた姫だったが、子供の手をじっくりと眺めた少年が「…棘は刺さってないみたいだ」と言ったことで腰を落ち着ける。が、やっぱり心配になって子供の方に駆け寄る。
姫がしゃがみこんで「大丈夫?」と尋ねる。子供は子供ながらに女に涙は見せらぬと思ったようで、慌てて涙を拭った。
その可愛らしい仕草にクスリと笑いそうになりながる。

「手を見せて?」

そう言うとぐぃっと乱暴に手を出して来た。小さくて可愛らしい紅葉の手。
――あっ。
姫の記憶が一つ紐解かれた。





「いが栗!いが栗ですよね!豊久さま!!」

寝室に入った瞬間に聞いた妻の言葉に豊久は面食らったようだった。
瞳を輝かせながらにじり寄る姫に対し、豊久は一歩二歩と下がる。
少しの時間を要したが、豊久は姫の言葉が理解出来たらしい。

「……思いだしたのですか?」
「はい!家久様と豊久様が私の屋敷にいらっしゃった時ですよね!!」

何年前になるのかは思い出せない。しかし季節はちょうど木々の色が赤や黄に色付く晩秋の頃。
姫と豊久は大きな栗の木の下にいた。
年下と言っても異性が苦手な姫としては逃げ出したい状況だったが、親から年の近い豊久と仲良くするようにと言いつけられていたのでそれも叶わなかった。
一方の豊久は子供と思えぬほど落ち着いているのだが、無口である。
当然のように間が持たなくなって、どうしたものかと、彼女がおろおろしていた時に突然豊久が動いた。

「っ!」

豊久は渾身の力を込めて姫を突き飛ばした。
突き飛ばされるまま尻餅をついた彼女は驚きに目を見開きながら見た。
押し出すようにして姫の居た場所に立った豊久の上に、棘に覆われた黒い栗が落ちてくる。豊久はそれを素早く素手で払った。

「豊寿丸!」

姫はすぐに彼の傍に駆け寄った。

「ごめんなさい!痛かったでしょう?」
「…いたくない」

痛くないわけがない。棘が少し手の甲に刺さっていた。
それでも彼は涙も見せず、ぐっと顎を引いて唇を固く結んでいる。
そんな彼に感心して、姫はこう言ったのだ。

『助けて頂いてありがとうございます。豊寿丸さまはこんなに小さいのに、立派な薩摩隼人でいらっしゃるのね』
『…豊寿丸はまださつまはやとではありません。でも、いつか、だれもがみとめくれるさつまはやとになりたいとおもいます…』

そんな会話をしながら彼を手当てしたのだ――。

姫は深々と頭を下げた。

「その節は本当にありがとうございました。助けて頂いたのに、ご恩を忘れていたとは…豊久さまが気分を害されるのは当然です。まこと申し訳ありませぬ…!」
「…いや」

やっと姫が思い出したのに、豊久は歯切れが悪い。
不安になって「あの…」と話しかけると、予想外なことを言われた。

「…謝らないで頂きたい。謝るのは…私の方です。あまりに幼い頃の一件。覚えていないのは当然のこと。それなのに一月前の裏山での私の反応は、その、いかにも大人気ないものだったと反省しています。そのことをずっと謝らなければと思っていたのですが…」

言葉を濁し、気まずげに豊久は視線を逸した。
姫は閃いた。
ずっと事あるごとに豊久の強い視線を感じ、睨まれているのだと思っていたが、どうやら彼は姫に謝る機会を伺っていただけらしい。
姫はなんとなく彼の性格が少しわかったような気がした。
やがて腹を据えたのか豊久は姫の正面に向き直って頭を下げた。

殿、先日の私の失礼な物言い。お許し頂きたい」

それはあまりにも堂々とした男らしい土下座だった。
姫は呆気にとられた後、大いに慌てた。

「そっそんな!あれは私が悪かったのです。顔をあげて下さい!!」

その言葉にキッと豊久が姫を睨んだ。

「だから、貴女が謝る事はないと言っているでしょう!」

豊久は苛々と声をあげる。
姫は思いがけず言い返された強い語気に、びくりと身を引いてしまう。
それに気付いた豊久が困惑したように視線を泳がせる。彼はいや、あの、などとらしくもなく胡乱な言葉を紡ぐ。
姫はしばらくしてくすりと笑った。豊久は分かりにくいが故に実はすごくわかりやすい性格なのかもしれない。
姫は彼を助けるべく違う話題を振った。

「豊久さま。一つ前々から伺いたいことがあったのですが…」
「…何です?」
「豊久さまは衆道にしか興味が無い殿方なのですか?」

豊久は見事に固まった。
反応の無い豊久に姫は地雷を踏んでしまったかと思いながら、しどろもどろに言葉を繋ぐ、

「えぇっと薩摩はそういうお土地柄ですから…私は気にしません。でも、あのお世継ぎはどう致しましょう?養子を頂きますか?幸い親戚は多いですし…」

そこまで言うとやっと豊久は自失から立ち直ったらしい。慌てて姫の言葉を断ち切る。

「ちっ…違います!!何を言ってるんです貴女は!?」
「えっ、違うのですか?だって私以外の女性の影も全然…」
「違います!勝手に誤解しないて頂きたい!」

顔をしかめて怒鳴る豊久に、流石に姫はむっとした。
それに一ヵ月間言いたかったことがたまりにたまった結果とも言うべきか。
姫は生まれて初めてとも言える稀有さで、男に怒鳴り返した。

「貴方が何も言ってくれないのだから、勝手に誤解してしまうのではないですか!!」

姫がこんなにも大きな声で反論するのが予想外だったのだろう。豊久は一瞬目を見張って、口ごもった。

「うっ、それは…その通りですな…。貴女の言うとおりだ。…貴女が会話をしようと言ったのを私が退けた。誤解された非は私にある…。」

言い終わると豊久は黙った。どうやら――すごくわかりにくいが、落ち込んでしまったらしい。
姫は慌てて話題を返ることにした。

「あの豊久様、もう一つお聞きして良いですか?」
「なっ、なんです…?」
「ならば何故私を抱いてくれぬのですか?」
「……それは」
「はい」
「貴女が怯えていらしたからです」
「!」
「それに……」

豊久は小さく呟いた。

「私が抱いたら、その、貴女を壊してしまうのではないか、と……」

最後は消え入るような声だったが、姫にはしっかりと聞こえた。
姫は目をしばたいた。やがて豊久の言わんとした事を理解すると柔らかく微笑んだ。
そっと襟元を緩めて豊久ににじり寄る。
怪訝な顔をしている豊久の手をとって自分の乳房に押し当てた。

「な、なにを…!?」

かぁっと目に見えて豊久の頬が赤く染まった。
その様子に姫まで恥ずかしくなったが、ここで引く訳にはいかない。

「陶器であるまいし、私は壊れません。けれど豊久様がこのまま褥を交わしてくれないというのなら、私の心は寂しさで壊れてしまいそうです」

豊久の表情は引き締まり、胸に押しつけていた手は払われた。
はしたない女と拒絶されたのかと青褪めかけた時、強く肩を抱き寄せられた。
豊久の顔が、近い。

「…私はまだ未熟者です。貴女が途中で怖がっても、嫌がっても、途中でやめられるか自信がありません。貴女は自分の言葉に責任がもてますか?」

姫はこくりと頷いた。
ゆっくりと褥に押し倒される。

「なれば今宵こそ、夫婦の情を交わしましょう」

姫の耳に熱っぽい甘やかな声が響いた。





一か月遅い初夜を終えると、豊久はぶっきらぼうに尋ねて来た。

「大丈夫ですか?」

姫は息を整えながら、にっこり笑った。

「はい。…豊久様と夫婦となれては幸せでございます」
「…そうですか」

そっけなく答えると、豊久は顔を背けた。
しかしその耳はほんのりと赤い。
姫は悟った。この人の妻になるためには、この人に上手に甘えなければならないのだと。
それは臆病な姫には至極難しい。しかし壊滅的に不器用な豊久から甘えてくることはまずありえないだろう。

「豊久さまあの…、今宵は近くで眠って良いですか?背中あわせではなく…」
「くだらない」

姫は距離を縮めようと頑張るが、一刀両断されてしまった。
そう上手くはいかないか…と落胆していたら、いきなり豊久が姫を抱き込んだ。

「…そんな些細なことを言葉にして許可をとる必要はないでしょう。私たちは――夫婦なのですから」

姫は嬉しくて、首をのばして豊久の耳に囁いた。

「これから仲睦まじい、良き夫婦となるため頑張りましょう」

豊久は「ええ」と短く答えると、目を閉じた。
その彼の心拍数が少し早いことを、姫は彼の腕の中で感じていた――。




Fin


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