「奥方様…!殿と何があったのですか!?」
「えっ?」

廊下を歩いていたら、後ろから大慌てで家臣が数人走り寄って来た。
見ればある者の頬は腫れ、ある者は腕に青痣をつくっている。
姫は何度目かのその光景に苦笑を浮かべた。
豊久は鍛練の際、特に厳しくなる時があるらしい。家臣達によると姫との間で何かあって、豊久が機嫌を損ねている時がその時だと言うのだ。
まさかあの理屈屋が八つ当たりなんてする訳がないと姫などは笑ってしまうが、家臣たちはかたくなに自分の主張を曲げない。
薩摩武士の頑固さにも困ったもの、と苦笑しながら、仕方なく姫は言われるまま昨日のことを思い出した。
確か昨日は――……

『ふん、貴女は随分石田殿と気が合うようですね。今日も庭で楽しげに話をしているのを見かけました』
『はぁ、石田殿とは何故か話が弾むのです。なぜでしょうか?』
『それは…』
『あっ、身長のせいかもしれません。石田殿とは目線が合わせやすいので』
『……つまり私とは目線が合わせにくいと?』
『だって、豊久様は背がとてもお高いんですもの。目を見てお話すると首が痛うございます』

……
という会話があったといえば、家臣達は「それだっ!!!」と声を揃えた。

「奥方様、早く殿に謝って下され」
「石田殿のひ弱な体より殿の逞しい体の方が素敵vと殿におっしゃって下され」
「殿のことを慕っていると、今一度、今一度お伝え下され」

頼みますると、これまた揃って家臣達が頭を下げる。

「奥方様だけが頼りなのです…!」

「…えぇぇ!?」

姫の困惑などなんのその。家臣たちはひたすら何卒、何卒と言葉を繰り返し姫を拝み倒したのだった。




家臣達に泣き付かれてようやっと解放された頃には夕方になっていた。
疲れたと溜め息をついていると、庭先にいる豊久の後ろ姿が見えた。
姫も庭に下りて、豊久に近付く。
彼は暮れゆく夕日を眺めているようだったが、その姿はなんだか途方に暮れているようにも見えた。

「豊久さま?」

「! 殿!」

声を掛けると豊久が驚いたように振り返ったことに、姫の方が驚いた。気配に聡い豊久がこんなに接近されていて気付かないなんて、よほどぼんやりしていたのだろう。
などと考えていると、腕を掴まれた。
豊久は姫の腕を掴んだままずんずんと歩きだす。
たどり着いたのは縁側だった。
姫を縁側に座らせると、豊久も隣りに座る。それから豊久は何かを調節するように、姫と距離を取って離れた。
姫はその仕草の意味を悟ると同時に、軽い罪悪感を覚えた。

「豊久様…もしかして昨日のこと気にしていらっしゃいますか…?」

そう言うと豊久は「ふん」と鼻を鳴らした。

「首が痛くなるのは貴女だけではない。こちらも小柄な貴女と視線を合わせるのは苦労していただけのことです」

つまりしっかり気にしていたらしい。
姫は罪悪感を深めるとともにこっそり内心で笑ってしまった。
この気難しい年下の夫は存外可愛いところがある。

「…豊久さま」

姫は豊久があけた距離をいとも容易く詰めて近付く。
驚きながら後ろに下がろうとした豊久の肩をつかむ。
姫は立て膝になって頬を寄せた。
軽く唇を合わせて離れる。
呆気にとられている豊久の顔を見て、姫は笑った。

「ふふ、この高さなら私からでも口吸いが出来ますね」

「はしたないことを…」

「じゃあ止めます。これからは一切私からは接吻しません」

「………止めろとは一言も言っていません」
豊久は顔を横に背けながら答える。

「殿」

「な、なんです?」

豊久の背けた頬に手を添えて、再び視線を合わせる。
豊久は動揺のために、目を白黒させている。

「話が弾まなくても、背が高過ぎても、笑ってくれなくてもは豊久さまを一等お慕い申し上げております」

「ふん。…ありがとうございます」

そう言うと豊久は姫の手をやんわりと押し退けて、背を向けてしまった。

本当は豊久にも何かちゃんとした言葉を言って欲しかったけれど、夕暮れよりも赤い彼の耳は何よりも雄弁で、姫はまた笑ってしまった。


Fin




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