これは都から程近い江州、逢坂の辺りの昔からあるカフェーの物語。
銀杏や紅葉が色づく頃、ぽつんと裏通りにあるカフェー。
「お客様?いい加減にお酒をお止めにならねば。」同じボックスに座っている店員が客に言う。
見るからに育ちの良さげな色の黒い、がっちりとした眼鏡の青年がウイスキイを勢いよく煽っている。
然し、あまり酔ってはおらぬようで、口もはっきりしているし、フラフラとはしていない。
「煩い!俺はなぁ、三高生なんだぞ!お前らに何か言われる筋合いなどないわ!」とまくし立てる。
店員は「あら、三高生、でしたか・・・・・。実は私、三高を卒業して帝大に通っている身なんですよ。」と。
少し妖しげな微笑を浮かべ、その青年に話しかける。「私の後輩にあたる方ならなおさら。さ、もうおやめに。」
青年は「ふん、帝大の生徒がよくカフェーで働けるな、まあ、事情があるならやむを得ないが。」と、ウイスキイを煽りながら言う。
くつくつと店員は笑い、「別に、お金がない訳ではないのですよ、むしろ、家は裕福なほうです。」と。
続けて、「単に、色んな方を見る事が出来るから働いておるのですよ。」そう言って、首を傾げる。
ふむ、という感じで納得した青年は「面白い御仁だ、ぜひ家に招待したい、とは思うものの・・・・・」と言葉を途切る。
「しかし、ここは逢坂、俺は洛中に住んでいる、遠いのでは?わざわざ来るには遠い・・・・・。」と。
店員は「あら、ここまで、私は来ているのですよ?もちろん、住んでいるのは洛中です。紫野、ご存知?」と言う。
青年は一瞬顔がぱあっと明るくなった気もしたが、すぐにいつも通りになった。「ご存知も何も、俺も紫野だ。」と。
ボックスには店員と青年しか居らず、他の店員は他の客と一緒に呑んでいるか、しゃべっているかしていた。
つまり、青年とその店員の二人きりであった。お互いが紫野に下宿している、然し、まだ出会って間もない。
どちらから話を切り出すかが問題であった。青年としては、プライドが許さぬし、店員は年下である青年から切り出させたいと思っていた。
「名前は、何と言うのだ?」頬を若干膨らましながら青年が聞く。店員は、はっとし、「なおまさ、と申します。素直の、【直】に、政治の【政】」
「良い名ではないか、俺はとよひさと言う。豊に、久しい、だ。」
互いの名を申してしまえば、今までの無粋な雰囲気では話さずに、学校での事や、両親の事や、郷里の事。
「俺ははるばる薩摩から来た。何せ名門の出でな、叔父上の推挙もあってのことだ。」
所謂お坊ちゃまなんだ?と直政は笑う、嫌味のない笑いで。豊久は尋ねる。「直政の家は?」と。
「豊久様と同じような家ですよ、元は駿州の出で。今は湖東の彦根に一族が居ます。」
湖東、か・・・・・とつぶやくと、豊久は「まあ、彦根は良い所ではあるな。俺の同人仲間から聞いた話によると、
彦根には井伊とやらが居ると聞くが、まさか直政はその井伊と何か関係でもあるのか?それに、今の井伊の当代は
直政というらしいじゃないか。」と尋ねた。少し表情を曇らせて、「今分かっているのは、帝大生で、彦根に一族が居る、直政、
という情報だけでしょう?それだのに、勝手にその様な事を言われても困ります・・・・・。」直政は言い終えると、豊久のウイスキイをぐいと呑む。
そして、「先ほど、豊久様は同人仲間とおっしゃいましたけど、もしや石田様、という方ではあるまい・・・・?」と逆に尋ねた。
豊久は「ああ、石田だ。郷里は江州の長浜だそうだ。なぜ?」と言い、「知り合いなのか?」と尋ねる。
「いいえ?たまに親兄弟からお話を聞いているだけですよ・・・・・ただ、私の知っている石田様と、豊久様のご存知の方なのかは
いまいち存じませぬ・・・・けど。」と、若干目を伏せがちに言う。豊久はそんな直政の肩を抱きよせ、「よせ、よせ。石田の話なぞせぬよ。
あいつは馬鹿なのだ。三国一の馬鹿だ。たまに物凄い秀才さを発揮したと思ったら、基本の事例を分かっておらぬのだ。
凡人でも、天才でもなしに、勉学に励み秀才になったのだから、分からぬ事は聞かねばならぬよ、と耳にたこが出来る程
日頃から申しておるのだ。しかし、ぜんぜん聞かずに、懐いてくる・・・・・。ああ、すまない、ぺちゃらくちゃらと話し込んでしまった。」
少し顔を赤くし、うつむき、謝る。直政は「そうなんですか?でも、まあ、天才という人種より人間らしいと思いますよ。」と言い、
「そう、そう。同人とおっしゃっていましたけど、何かお書きになっていらっしゃるの?」と尋ねる。
豊久は「ああ、文を。既存の文学に当てはまらぬような文を、ね。」と言い、鞄から冊子を取り出す。
紺の表紙に紅色で「おもひで」と書いてあり、背景は薄標色で縞模様が見える。
「これは俺と石田と宇喜多と、小西の四人の作品を収録してある同人誌だ。まあ、学生の秘かなる社会に対する
反抗心というか、まあ、うん、その、学生でもこれぐらいは出来るのだぞ、という心だな。冊子の色合いやら何やらは宇喜多が全て。」
直政はその「おもひで」とやらを手に取り、読み始める。ぱらぱらと、ぱらぱらと。「これは今、少しずつ世に広まりつつある無頼の文章ですね?」と言い
豊久を驚かせた。知っているのか?と聞くと、直政は「知っているもなにも、私、大学で無頼の同人をしているもの。先日、同じような冊子を
仲間と出しました。まあ、文学仲間ということですわね。」そう言い、にっこりとした。豊久もその風体に似合わずにっこりとした。
その笑顔に直政は若干驚いたが、顔には出さずにいた。(豊久様も笑顔を浮かべるのね、という風に。)
暫く、文学の話やらをし、お互いの創作意識についても話し始めた。
豊久いわく、「創作とは己の心のうちを簡潔に他人に伝えるもの」だそうだ。直政はそれに反論する。
「確かに簡潔に伝えられるかもしれません。けれど、私達文士は、一行の真実を言うためだけに、原稿十枚も使うのですよ?
それなのに、簡潔だなんて思えません。私は、簡潔に伝えられるものは詩だけだと思っています。
人間の心理に訴えかける点、という所で、ですが。」と。豊久は何かを言おうとしていたが、言わなかった。
そう思い当たる節があるからだ。(・・・・・この直政という人間は、ぱっと見、白痴かと思わせる程の者だが、
実は相当の切れ者・・・・・。)
先日、豊久と石田の二人で自身の作品について感想を言い合っていた際に、石田が「豊久殿の作品は良い悪いで言ったら、
良い部類に入ると思います。しかし、何と言うか、こう、もうちょっとはっきりと物申した方が、良さが引き立ちますよ?」と言ったのを
思い出したのだ。豊久自身は己の心の内を吐露した自信作だったのだが、そうもいかなかった。
宇喜多や小西にも意見を求めた。宇喜多曰く、「育ちの良さ故の苦労じゃな!自身をもうちと出さねばの。」
小西曰く、「自分でよいと思うもの程、悪いものはありませぬ。」 以前の豊久ならば、怒っているであろう発言だ。
しかし今は怒りにきたわけではない。素直に意見を聞いた。
「豊久様?」 直政が名前を呼ぶ。はっとし、顔を上げる。「ずっと黙っておられるから、どうしたのかと。」
心配そうに見つめてくる直政にドキリとした。(こやつはこんな表情をするのか・・・・と。)
豊久は「嗚呼、いや、たいしたことではないのだけれど。以前、同人仲間から言われた事と、先程のあなたの発言が
妙に自分の中でしっくりきたものですから。」と言う。
直政は「つまり、その仲間達からも、作品について言われたのですね?」とたずねる。豊久は「嗚呼」とだけ言う。
豊久は直政に「もういい加減、文学の話はしないでくれるか?」と切り出した。
素直に聞きたい直政だが、そうもいかない。「嫌です。まあ、仕方がありませんけどね。ならば、この休みにでも宅へ伺っても?」と切り出す。
「カフェーでお話するのが嫌なのでしょう?そうでしょう?ならば、私達どちらかの宅で話をするのが筋ではないかなぁと思うのですが。」
ここまで言い切れば、直政も確信をもてたであろう。(詰めた。こういえば、豊久様は私の宅へ来るはず。)
豊久は「良いでしょう。今日はもう帰りますが、週末、また会いましょう。ええ、どこへ行くとかというのは、明日、学内ででも。」
そう言い、冊子やら何やらを鞄へしまい始めた。「それならば、明日の午後三時、門の前で待っているというのはどうです?
偶然にも明日は教授に用事があって。あなたも三時ならば都合がつきましょう?」と豊久は言った。
直政はこくりとうなずき、「無難な時間ですね、分かりました、それならば待っております故。遅刻は十分以内でお願いしますよ?」と
笑顔で言う。直政の笑顔(微笑ではなく)を見るのは初めてだったので、何故か、豊久は嬉しかった。
じゃあ、と豊久は言うと、席を外し、会計をする。普段よりも少しだけ会計が安かった。
直政と話をしていて、最後のほう、全然ウイスキイを呑まなかったからか?然し財布に優しい事には変わりなかった。
(・・・・・・一応学生だからな・・・・実家からの仕送りはあると言っても、無駄遣いはならぬ。。)
直政は、扉を開けようとする豊久に向かって、「明日の午後三時が待ち遠しいです!」とはっきりと言い、
少しだけ首を傾げ、手を振る。このように艶やかな男が居るものか、と新しい発見があった。
懐中から時計を出し、時間を見る。午後七時。帰る頃には八時過ぎか、良き時間よ、と思い駅まで歩き始めた。
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次の日の昼下がり、直政は廊下に飾ってある鏡を見ながら髪形を直していた。(豊久様と会うならば、身嗜みも整えなければのう・・・・・。
哲学を専攻しておる友人が言うておった。人は粋であることが大事であると。性の艶かしい感じから、己の粋具合が出てくるのだと。
いや、間違っておるのか?知らぬわ全く哲学とかいう勉学は俺にはわからぬ。まず、豊久様の前で俺と言うても良えもんかの。
まあ、家に行って油断して地が出るより、今から出しておいた方が得と言うものよ。)
数少ない、専攻が同じ友人達が「おい直政が身嗜みを整えておるぞ!どこぞのおなごと逢引かの?」と茶化してきた。
直政は「何、友人と会うだけよ!」と軽く受け流した。友人達は「ほぅ、せいぜいがんばるのだよ!」と笑いながら廊下を歩いていった。
(ほんに、あやつらは悪よの。おなごなど、無駄にくねくねしておって好かぬわ。町娘はいざしらず、だがな。
その点、男同士ならば、何も心配はいらぬ。迫ってくることもあるまい。女などもうこりごりじゃ・・・・・・・。)
廊下のぼんぼん時計(ぼんぼんと、定刻になると鳴るため、直政はこう呼んでいた。)は二時半をさしていた。
(早く行って困ることはあるまい・・・・。)そう思い、門へゆっくりと歩きは始めた。
門へ向かう人はまばらで、今門を出ようとしている生徒は、講義を休むか何かの類だろう。
(服装はおかしくないだろうか。紺地に紅の縞模様など、いかにも質実剛健な豊久様に理解されるであろうか。
もうちょっと普通の服装にすれば良かっただろうか。いや、普通とは如何様なものか。自分の好きな服で良いか
これ以上考えてもどうにもなるまい。)
鞄から羽織をだして、さらりと着る。いつか、その所作が美しいと商売女が言っていた。(あやつらの言葉など信じれぬわ。
本当に美しいのは、俺のような発想のない、清らかで自然で、居るだけで癒されるような人間を言うのだ。例えば豊久様のような)
門まで後少しという所で、直政はドキリとする。(豊久、様?)門の脇には、上等なビロードの外套を着た豊久が立っていた。
豊久は近づく直政に気付き、手を振った。直政もそれに応じた。豊久は「ふん、カフェーで働いているからには、もう少し
浮ついた格好をしているものかと思っていたが、これは驚いた。どこからどうみても文士じゃないか。」と惚れ惚れした様子だった。
直政は、(阿呆!カフェーで働いている人間が皆同じようなものだと思うでないわ。俺はそんなんじゃない)と思いつつも、
「まあな。俺はこういう格好を好むのだ。何せ、日ノ本に生まれた人間であるし。」と言う。豊久は何も言わなかったが、
どうせ俺という直政に驚いているのだろうなぁと、直政は勘付いていた。(皆そうよ、当主である人間はこうであらねばならぬとか
ああだこうだ言いやがって。豊久様にはそういうのは見せられぬな。見せたくもない。)
豊久は「私というあなたより、俺というあなたの方が俺は似合っていると思う。飾っていない。 昨晩のあなたの言葉を借りつつ言うのならば
こうなるでしょうな。」言い終えて、その図体に似合わない笑顔で直政を見た。それに反抗するかのように、「あなたはその笑顔をどういう
つもりで見せているのか。俺が商売女なら、そのまま待合へ行くような笑顔じゃないか。皆にしているのか?ならばあなたは情夫のような方だ。」と。
豊久は少しむっとしたようだった。「誰にでもというわけではありません。叔父上とあなたにしか見せていません。級友にも見せていないというのに、
商売女になど絶対見せません。あやつらは毒です。それに、あなたには名前で豊久と言ってもらいたいですな?」と逆に反論されてしまった。
豊久から出された「あなたには名前で豊久と」云々に直政は若干心がざわめいたが、顔には出さずに、「で、あるわけですか。分かりました。」と
さらりとながし、「祇園の茶屋で一杯行きますか?」と話題を変えようとした。豊久は首を横に振り、「いいえ、遠慮します。祇園の空気は何故か合いません
故に。」と言い、「茶の一杯や二杯、俺の家で飲めば良いじゃないですか。薩摩の菓子もあるのですよ。」と誘われた。
どうせ家に行くのだから、祇園は止めるか。と直政は思い、それじゃあ、行きましょうと豊久の手をとり、歩き始める。
豊久は「あなたは・・・・・直政は出会う人間皆に良い気持ちを味わわせるために手をつなぐのですか?」と素直に聞いた。
先程の豊久と同じように首を横に振り、「豊久だから繋ぐのだ。」と、顔を俯きながら言う。横目でちらりと豊久を見ると、
頬を赤くそめ、同じように顔を俯かせていた。(豊久様は相当のやりてに見せておきながら、実は初々しいではないか。)直政はそう思った。
声を震わせつつ、豊久は言う。「その、ような・・・・・・直政はいつもこうなのか?」と。「いや、違うね。豊久だからだ。」と。
完全に黙ってしまった。全然、質実剛健じゃない。顔も真っ赤。よく見ると、耳まで真っ赤じゃないか。
もう、何が何やら分からない。「そう真っ赤になるなよ。男同士じゃないか」直政は笑いながら、豊久の肩にぽんと手をのせた。
然し豊久は、その手さえも拒否した。「家に着くまで黙っていてくれないか。」「なぜだ?」直政が問うても豊久は黙ったままだ。
どうせ同じ紫野に住んでいるのだろう。まあ、黙っていても良いか。「ならば、豊久。北大路まではついてこい。それから後は、先導してくれよ。」
そう言い、駅へと向かった。門から一時間足らずか、時計を見ていなかったから具体的には知らないが、着いた。
もちろん、気まずい雰囲気のまま。「さあ豊久。案内してもらおうか。」 今までの覇気はどこへやら、まるで処女のようにはにかみ、うなずく。
(・・・・・こんな表情をするのか。良い発見だ。)直政はそう思い、後ろを歩く。
豊久は身の丈190cm近くあるとみえる。自分よりも少し大きい。然し、後ろを歩く限り、その大きくはみえない。小さい。
猫背にしているからか、分からないが、小さい。一回り小さく見える。
見慣れた町並み。そりゃそうだ、毎日ここまで帰ってきてるんだ、当たり前だ。しばらくすると、建勲さんが見える。おっと、意外と近所なのか?
豊久はふと足を止めた。「ここが、下宿だ。」 (ん?ここは俺の隣じゃないか。つい最近人が住んでると知ったが、まさか豊久様だったとは。
まあ、隣だということは、いずれ分かる事だろうし、自分からは言わないでおこう。)
直政は「じゃあ、お邪魔するぞ。」とずかずかと入る。小奇麗にしてある庭に靴を置き、縁側に立ちすくむ。
まあ、本が一杯ある部屋だと思ったのだ。「部屋が散らかっているが気にしないでほしい。ほんのちょっとだから。」そういうと、豊久は台所へ向かった。
然し、まあ、本しかない。というより、直政は部屋の狭さに驚いたのだった。(俺の下宿、といっても、別荘だが。もうちょっと広いぞ。
二階は三部屋空いているし、豊久を連れ込むか・・・・・いやしかしこんなに本があると床が抜けやしないか?まあ良いか。)
五分程して豊久は戻った。「申し訳ない、遅くなってしまった。さあ、座って。」外套を脱いだ豊久は、往来を歩いている時よりがっしりと見えた。
ひょろ長いわけでもなく、がっしり。直政は若干驚いた。「嗚呼、お茶をもらおう。焙じ茶だっけ?」と言い、見渡す。
自身の家のくせに、礼儀正しく正座をしお茶を出す豊久に比べ、胡坐をかき、ゆったりとしながら座る直政。対照的であった。
「直政は礼儀と言うものを知らぬのか?」豊久は問う。直政は「説破。礼儀とは堅苦しいものにあらず。必要最低限の教養である。」と答える。
「臨済宗か?」と聞かれ、「友人の受け売り。」と答える。二人は笑い、なあんだ、とか、そんなものよとか言い合った。
ふと、笑いも声も止み、見詰め合った。沈黙が続き、気まずさが漂い始めた。心なしか、豊久がにじり寄ってくる。
直政は「そういえば、門の前で黙ってくれないか、と言っていたわりに、家にいるとしゃべるではないか。なぜだ?」と尋ねる。
はっとし、豊久はこういう。「昨晩、カフェーで出会ってから、直政の事が気になっていた。まるで賀茂の斎宮のように清らかな直政が。
本当はもっと素直に話したかった、ポオズなど気取り無かった、だけれど、外ではポオズをとらなければいけない。
そんな自分を見られたくなかったんだ。言われたくなかったんだ。直政は聡い人だから、三高生ごときのポオズなど見破ってしまうのではと思っていた。」
うっすらと涙さえ浮かべ、豊久は言う。「部屋なら、素の自分を出せると思った。祇園なんかでポオズ気取るより、部屋で素の自分を見てほしかった。
直政は俺の事など所詮子供だと思うかもしれない。だけれど、俺は昨晩、あのちょっとだけの時間で、弁財天のような直政に出会ってしまった。
美しい直政に。本当に偶然だった。まさかとは思った。自分が信じられない、一目惚れなどというものは、創作の中だけだと思っていた。
もう、今自分が何を言っているのかさえも分からない。昨日あれほど悩み、悶え、今日も午前など、何があったか覚えていない。」
言い切ると豊久は黙ってしまった。直政は困った。まさか男から、(しかし豊久様であるが)このような形で迫られるとは思ってもいなかったからだ。
「豊久の言いたい事は分かった気がするけど・・・・・。俺は男なんだぜ?」と直政は言う。
「性別など関係ない。精神的なつながりがほしいだけだ。郷里は遠く、友人も少なく、居たとしても同人仲間だ。心の内など恥ずかしくて言えぬわ。」と。
直政は言う。「とりあえず、涙、拭えよ。いい男が台無しだぞ?」ポケットから、ハンカチイフを取り出し、手渡す。豊久はそれで涙を拭った。
「申し訳ない。ありがとう。そうだ、ぼんたんの砂糖漬けだ。元気がない時に食べると良い。今持ってくる。」
豊久はすっくと立ち上がり、再び台所へと向かった。部屋中、本だらけ。一体どこで寝ているというのか。ふと目を下げると一枚の紙がある。
読んではならぬと分かっていても読んでしまう。一番上には「堕落」と書いてある。そこにはたった三行しか文章は書いてなかったが、
直政を驚愕させるだけの威力はあった。
「直政という男は妙に退廃的な美しさを備えていて、艶かしい。同じ帝大生、いや、人間とは思えぬ清々しさがたまらない。ずっと見つめていたい。」
そう書いてあった。直政はそっと原状回復をし、平静を装おうとした。(同じ帝大生、だと?三高生ではないのか?思考が乱れてきたぞ、危ないぞ。
もしや、学内でのよく分からぬ視線は豊久だったのか?・・・・・・在り得ぬ、ありえぬ事だが、もしかしたら・・・・・・・。)
廊下からスルスルと音がする。もう来るのか。ものの数分だったが、きちんと豊久と話せるか心配した。
「すまない、どこにしまったか忘れてしまっていて。はい、ぼんたんの砂糖漬け。これを食べると、集中力が上がるんだ。原稿をする時にはちょうど良い。」
豊久はにこやかに言う。「嗚呼、ありがとう。・頂こう。」そう直政はいい、皿に手を近づける。心なしか震えている。豊久に勘付かれてはいけない。
然し、見つかってしまった。
「何を震えて?」豊久はそういうと、じっと目を見てきた。「いや、ちょっと考え事をしていて、それで。」こんな安上がりな嘘。見破られてしまう。
「もしかして・・・・・。」豊久は先程まで直政が読んでいた紙にそっと目をやる。動いていない。(直政が勝手に読むはずがない。読まれたらそれこそ
今ここには居ないだろう・・・・・俺はしまったつもりだったのだがな。)「大丈夫だ、豊久。その紙なら、お前宛の文だろうと思って見てはいないぞ。
しかし、何が書いてあるのだ?」と直政が言うと、さっと片付けられてしまった。「駄目、だ。これは、直政でも、読んではいけない。」
にっこりと、「分かった。」と直政は言うものの、心の中ではその文について考えていた。(そりゃそうだぜ・・・・・今目の前にいる男の事が書いてあるんだ。
何が艶かしいだ。何が美しいだ。)内心、いらいらしていた。
豊久はぼんたんの砂糖漬けを食べながら話を切り出してきた。「直政、正直に言うけど、驚かないでほしい。俺は・・・・・俺は帝大に通っているんだ。
三高生なんかじゃない。直政と同じ帝大生だ。いつも、友人達と元気に話す直政を見ていた。話しかけるきっかけがほしかったんだ。すまない・・・・。」
豊久は口をもぐもぐさせながら言う。正直、嘘をつかれていた事に腹を立てていた直政だが、そんな些細な事で怒っていては仕方が無い。
「いや、分かっていたさ。まあ、これからは嘘をついてはいけないぜ?俺だけには正直で居るんだ。後、俺からも大事な話があるんだが・・・・。」
そう切り出す。豊久は少し驚き、うなずく。
「じつは俺の家は隣なんだ。今は俺しか住んでいない。もし良かったら、家に引っ越さないか?いや、本とかはそのままで良いから・・・・・
俺の家の家賃は払わなくて良いから・・・・・別に、ご飯だけ食べに来ても良いし、寝るだけでも良いし。大体の事は女中がしてくれるから・・・・・。
そんなに生活には困らないはずだ。二階にそこそこ部屋があいているし、文学サロンを開くだけの部屋もあるし、どうだろうか。」
豊久はいきなり言われた事にすごく驚いた。まだ何が起こったのか把握出来ていない感じでもあった。
「本当に良いのか?俺が住んでも?でも、迷惑が・・・・・」言い終わらぬ内に直政が言う。「迷惑も何もないわ!ここまで俺の心をざわつかせた男は初めてでの。・
それだけで迷惑がかかっておるわ・・・・・・心がざわつくという迷惑をかけておる。俺も豊久となら一緒に暮らしても良いとは思っておる。
後は、決断するだけだ。どうする?」豊久は迷わず、住む、とだけ言う。直政は、うむ、と言い、豊久ににじり寄った。
直政は、昨晩のカフェーでの妖しげな微笑を浮かべ、言う。「驚かずとも良いのだ、豊久も俺にこうされたかったのだろう?目を、つぶるんだ。」
そう言い終えると、左手で腰を支え、右手で頬を持ち、口吸いをする。豊久は何かもごもごと言っているようだった。
直政は唇を離し、「興がそげる。もごもご言うでないわ!言いたい事があるなら後にせえ。心配せんでも、俺が吸ってやる。」
こう言い、再び、吸い始める。豊久はあまりにも急な事で、頭が錯乱しているのか、目がぱっちり開いたままだった。
はっと我に返った豊久は直政を突き放し、文句を垂れる。「何をしているのですか!確かに、接吻をしたいとは思っていました。けれど!
けれど、まさか吸われてしまうとは思いませんでした!直政ならもっと優しい接吻かと思っていたのに・・・・・・」
しかしここで素直に聞く直政ではない。「何が優しいだ!俺に想いを寄せているなら、良いではないか!いずれするものなのだし、減らぬものであろう?
別に俺は豊久に突っ込ませろとは言っていない。しかし、豊久、お前、初めてだったのか。可愛い顔してたじゃないか」
ニヤニヤしながらまくし立てる。豊久は今にも泣きそうだ。「カフェーや門の前で待ち合わせしている時は豊久が主導権を握っていたのにな?
残念な心持であろ?」と直政は言う。(詰めた。これで豊久は謝るぞ。)
然し、予想を外れた答えを、豊久は言う。「主導権を握っているつもりはありませんでした!島津の人間はいつも驕らぬのです!
普段通りを装っていたつもりでした。でも・・・・・手を取られた時に、「嗚呼、もう駄目だ、普段通りなど装えぬ。」と思ったのです。」
ふぅん、と直政は言い、「じゃあ、つまり、俺があそこで手を取らなかったら、どうなっていたの?」と尋ねた。
豊久は「分かりません。俺は直政が行動を起こさなかったら、俺が起こそうと。だけれど、基本は動かないつもりだった。
叔父上も、とにかく相手をよく見ろと言っていたから・・・・。だけど、もう俺には無理だった。ついていくしか、なかった。」
直政は内心で、案外豊久も初々しいというか、覚束ないというか、なんだなぁと考えた。
「ならば、これからは、豊久から、接吻をしたくなったら言うんだ。自分がしたいと思うのなら、嫌でもないだろう?」と直政は説得をしようとした。
豊久は少し顔を赤くし、「そうしよう。直政からだと、死にそうに恥ずかしい。体が持たぬ。電流が走るようだし。」と言った。
ふむ、電流かぁと思った直政は「然らば!」と叫び、豊久に覆いかぶさった。驚いた豊久は目をつむりぎゅっと唇を噛み締めていた。
「そんなに、厭なのか?」と直政が問う。「緊張してしまうのだ!恥ずかしいのだ!いたしかたなし!突破する!」と反論し、
逆に直政を押し倒した。そして、直政も驚くような口吸いをした。少しの間吸い合い、豊久は言う。「これからも指南してくれ!」と。
直政は人差し指をきゅっと立たせ、ぴっとその指で豊久をさす。そして、「任せろ。俺にかかれば、落ちぬ奴は居らぬ。」と。
豊久は嬉しくなり、ぎゅうと直政を抱いた。
Fin
10.11.3
□ ■ □
ツイッターのお友達の明十さんから頂きました!
新境地カフェー店員の直政と文士豊久です!!
大正ロマンの香り漂う内容と文体にメロメロです。
豊久可愛いよ豊久。ビバヘタレ久!(*´∇`*)
明十さん、素敵な作品をありがとございました!
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