その冷や水売りは盲目であった。
しかし心の悪い客が銭を誤魔化そうとすれば、すぐに気付いた。謀れることは皆無であった。
また見えぬはずなのに、道で人とぶつかることもなかった。勘の良い者はその動きから、冷や水売りが元は武芸者ではないかと疑う。一度面と向かって冷や水売りにそう尋ねた者がいたが、彼はその問いをするりと躱した。
不思議な雰囲気を持つ男である。世慣れているようで、浮き世離れしているようにも感じる。ふわふわとして捉えることができない。
しかし人当たりが良い穏やかな気性は村人の受けが良かった。夏だけに訪れる客人として冷や水売りは村人に歓迎された。
老人は件の冷や水売りを遠くから眺めていた。
いつ死出の旅路に発ってもおかしくないほどの高齢である。
だが体格は素晴らしく、動きも矍鑠としていた。額に丸十字の模様がある変わった猫を腕に抱えている。
老人は頃合を見計らって、冷や水売りに声を掛けた。
「もし」
「はい、何でしょう?」
冷や水売りの声を聞いた老人は、言葉を詰まらせた。
相棒を助けるように猫が「にゃーご」と鳴く。
その鳴き声に冷や水売りはおや、という顔をした。
「猫、ですか?懐かしい。私も昔は……」
そう言って冷や水売りは首を傾げた。
自分は今何を言おうとしたのだろう、とでも言うような仕草だった。
ちぐはぐだ、と老人は思った。姿形は大人の男なのに、その仕草は幼児のようにあどけない。
身なりもきちんとしているように見えて、あからまさな隙があった。盲目故それも仕方がないかもしれない。しかし老人はそれで納得しきれない齟齬を感じた。
「…その腰に下げているものは何であろうか?」
「あぁ、ご覧になりますか?」
気軽い様子で彼は箱を差し出した。
老人は蓋を開け、微かに眉をあげた。
中には漆塗りの髑髏(しゃれこうべ)が入っていた。
「私の宝物です」
冷や水売りは品良く控え目に笑った。
「これをなぞるだけで私は彼の顔立ちを思い出せる。氷を触れば彼の感触が甦る」
視力を失った代わりに、手の感覚は鋭くなったのだと冷や水売りは言う。
「彼はもう在りませんが、その代わり彼のすべては私のものです。もう誰にも彼を見ることは出来ない。私のこの盲いた目以外は」
黙って聞いていた老人は、ぽつりと尋ねた。
「貴殿の名を伺ってもよろしいか?」
「私はただの冷や水売りです」
「名は」
冷や水売りは微笑んだ。
「名はありません。私は、ヒトではありませんから」
それはこの世のものとは思えない程、美しい笑みだった。
老人は長く生きてきた中で、これほど純粋で妖しげな微笑を見たことがなかった。
左様か、と老人は短く答えた。
「冷や水を、一杯頂こう」
「失礼ながら、年を召された方が冷や水を飲むと腹をくだします。涼を取りたいのなら氷を差し上げましょう」
手ぬぐいの上に、ころりと氷が置かれた。
日の光を透す美しい氷の欠片だった。
それでは、と立ち去る冷や水売りの背中に老人は最後の質問を投げ掛けた。
「…貴殿は今幸せか?」
冷や水売りは振り向いて答えた。
口許にはやはり穏やかな微笑を浮かべている。
「とても」
その時、瞼で隠されていた彼の瞳がやっと見えた。
黒とも白ともつかぬ間(あわい)色の瞳であった。
それから長い時間老人は黙考していた。やがて低い声で呟く。
「……あれはあれの最善を選んだのだ」
彼は本当に幸せそうだった。この氷のように空っぽで綺麗な器の中に、満たされた独占欲だけ注いで笑っていた。
気遣うように相棒が鳴いた。
老人は戦友の頭を撫でる。
「帰ろう」
踵を返し、老人は暖かな故郷へと帰って行った。
Fin
初出09.08.18〜31
サイトup09.12.23
>Back
|