激しくなる雨足に刻一刻と弱まる彼の命の炎を消し去ろうとしているような悪意を感じた。
豊久は憎しみを込めて雨を降らす漆黒の空を睨みつけた。
――井伊直政兵部危篤。
その知らせに驚愕して、すぐに佐土原を発った。彼が静養している屋敷まであとわずかという所で、土砂崩れにより足止めを食らった。それでも強行して進もうとした豊久に、「この悪天候ではとても進めません。おやめください」と供回りで同行した家臣は悲鳴をあげるように訴えた。豊久はやむなく、折れた。今ほど肩書きが煩わしいと思ったことはない。
早く、早く彼の元へ行かなければならないのに。
早く彼を罵倒して、詰りつけて、それから、それから…
それから、あの時何故病のことを言ってくれなかったのか問い詰めなければならない。
よく晴れた日だった。
彼はいつものごとく唐突に佐土原にやってきて、いつもより輪にかけて唐突なことを聞いた。
「島津、俺のことどう思っている?」
「…ふん。いきなり何を」
「俺だってわかってるぞ。なんとも思ってない奴がずっと一緒にいてくれるほど、俺といるのは楽じゃないだろうってことは。でも俺は――」
出来ればはっきりとした言葉が欲しい。そう告げる直政の真摯さに、豊久は息を飲んだ。
これまで明確な言葉で好意を伝えた事が豊久にはない。それでも直政が尋ねてきても以前のように無下に追い出すこともなかったし、逆に豊久が佐和山に赴いたことも数度あった。その行動で彼に伝えているつもりであったし、彼も察しているはずだった。
だが直政はもうそれでは足りぬと訴えてきている。
しかし、豊久は心底素直ではなかった。
「ふん。私が本当に嫌いな奴とずっと一緒にいられる性分だと思っているのか?」
理屈を順序だてて喋ることは出来るのに、自分の感情を吐露すること――それが親類以外ものであれば――根っから不得手な豊久は結局このような返答をした。
直政は何かを言いかけたが、すぐに口を閉ざした。
それからいつもの至極明るい表情になった。
「そうだよな。嫌いだったらそばにいないよな!」
そう言って、からからと笑い声を立てた。
ためらったのはまだ彼が答えを待ってくれると思ったからだ。
それなのにこんな事は聞いていない――!
豊久は自分と直政を分かつ雨を睨みつけた。
その時近くの木々の間から鳥が1羽飛び立つのが見えた。
青い鳥だった。
彼が常時、身に着けている襟巻きを彷彿とさせる色。
追いかけなければ。
何故と、疑問を挟む前に足が動いていた。
見失ってはならない。強い脅迫観念に追い立てられ宿屋の階段を駆け降りた。
外に出れば鳥は近くの木の枝に止まっていた。
こちらを見る鳥の視線に、まさか自分を待っていたのかと感じた途端、鳥が羽ばたいた。
――待て!!
鳥を追いかけて、豊久は森の中に分け入った。
走り続けて、だいぶ宿から離れたところで追走劇は終わりとなった。
鳥の動きが止まった。木の下に佇む男の肩の上に落ち着いたのだ。男の顔は暗がりでまったくわからない。着物も地味な褐色で夜闇に輪郭が溶けてしまいそうだった。
しかし豊久はそれが誰なのかすぐにわかった。
呆れる程まっすぐに伸びた背筋、その立ち方、頭の位置、肩の形。すべて見知ったものだ。触れたこともある。何度も。
豊久は男を睨付けた。
「ふん、待たないつもりか。あと一日。あと一日すれば、お前の元に着く。それくらい待てないのか」
暗すぎて彼の表情が見えない。
ただ困ったような笑みを浮かべているように感じた。
その微笑に焦躁とやるせない情動を覚えて、彼に近付こうとした。
しかし彼は何かに呼ばれたような素振りで、豊久に背を向けた。
「行くな!」
去ろうとする彼に追いすがった。
しかし近付くことが出来ない。
男はゆっくり歩いているようにしか見えないのに、いくら走っても距離は縮まらなかった。
言わなければ。
今、伝えなければ
彼はもう手も声も届かない場所へ行ってしまう――
この期に及んで豊久が言葉にするのをためらったのは、それが同時に別れの言葉になるとわかったからだ。
けれど今が言わなければいけない時だということも豊久にはわかっていた。
豊久は一度唇を強く結んだ。
かみ締めた唇から微かに血が滲んだ。
走る足が水溜りを蹴った。
ばしゃん!と大きな音を立てて雫が跳ねる。
「……お前が、好きだ。ずっと、好きだった…!」
豊久の顔が歪んだ。こんなに痛みを伴う告白なんてしたくなかった。
「逝くな!!」
必死で叫んでいるのに彼の口許ははっきりと笑った。
大きく手がふられる。
またな。と声が聞こえそうなその仕草は
幻と言うにはあまりにも生き生きとしていて
あまりにも彼らしい大袈裟な仕草で
胸が張り裂けてしまいそうだった。
ずっとその姿を見ていたかった。留めておきたかった。
だから豊久は一心に彼を見つめ続けた。
視線で捕らえていれば、彼を引き止められる気がして――
その時、何が背後から豊久の頬の横を駆け抜けた。
鳥。
青い、鳥だ。
空に舞い上がる美しい羽の広がりを確認したのはほんの一瞬。
その刹那の間に彼の姿は、闇に溶けていた。
――ああ、喪ったのか。
そう、呟けば、
ざぁぁぁっと雨音が耳朶を叩いた。
その音に豊久は今まで無音の世界にいたことに気づいた。
その事実に彼はもういないのだ。と改めて悟る。
足の力が抜けた。
膝をついて、爪で土を抉った。
この空の下に、大地の上に彼はもういない。
彼の声を温もりを思考を感情を己と対等の武を笑顔を、命を、喪った。
否定しながら、己とは真逆のその眩さに惹かれていたのに。
こんなにも焦がれていたのに。
豊久は頭を抱えた。
「……あぁっ…!!」
その悲痛な慟哭すら激しい雨音に吸い込まれた。
豊久は礫のごとく降り注ぐ雨に身を縮める。顔を覆った掌からは止まることの無い雫が、指の間から零れ続けた。
Fin
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初出09.6.15
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