「どこかへ一緒に逃げないか」
江戸から佐土原に転がり込んで来たと思ったら、直政はそんなことを言い出した。
到底彼らしくない言葉。さしずめ政治中枢の現場で嫌なことがあったのだろう。彼は珍しく弱っていた。
しかし豊久は彼の言葉を取り合わなかった。
「ふん、逃げは貴様の言うところの悪じゃないのか」
切り捨てて、本をめくる。
ちらりと目だけ動かして、直政の顔を確認した。
「動いて食べて早く寝てしまえ。貴様の陰気な顔など見せられる方が迷惑だ」
だが直政の顔は晴れず、あぁと言う力ない返事だけが漏れた。
豊久は迷った。島津の家にも名門故のしがらみや陰鬱さはある。そのすべてを受け止めいかにして責務を果たすかを己の使命としている豊久には当然「逃げる」などという選択肢に考慮の余地はない。
だから――ためらうように、豊久は小さな声で言った。
「……ふん、旅になら行ってやっても良い」
「え?」
「………暇になったらな」
本を閉じて豊久はそわそわとその場を立ち去ろうとする。
直政は呆気に取られたが、その後満面の笑みを浮かべた。
「ああ、いつか行こう!」
あの時
もし彼の痛みや苦しみに誠実に向き合っていたら
彼の言葉に頷いていたら。
あらゆるしがらみから逃げだして
彼と2人。
外の世界に出ていたらどんな人生を送っていただろうか。
それは今よりも幸福だっただろうか。
何度振り返っても自分が言うべき言葉はあれしかなかったと思いながら、詮無き思考はぐるぐるとつきまとう。
現実は常に不自由だ。だが空想だけは人の身で許された果てしない自由だった。
青く澄み渡った夏の空が広がっている。
すれ違った人に「こんにちは」と声を掛けられ、豊久も挨拶を返す。供を連れず平服で歩く豊久を誰も元佐土原の城主とは思わなかった。
人々は、提灯や供え花を持って道を進んでいる。今日は人と人ならざる者の世が交じり会う日――盂蘭盆である。
ちりん。と鈴の音が聞こえた。見れば茄子と胡瓜で作った精霊馬を持ち先祖を迎えに行ったのであろう老人が向こう側から歩いてくる。豊久は自ら頭を下げた。
豊久は陽炎で揺らめく石段を昇った。
「待たせたな」
答えは無い。豊久は気にせず言葉を続けた。
「やっと佐土原を任せられる人間が育った」
豊久の口調は常と変わらず理知的で淡々としていた。彼は膝を追って、――石碑に正面から向き合った。
「約束を果たそう。いつか共に旅に。そのいつかは今日で、そして今からだ」
豊久は供え花を持っていなかった。必要がなかったからだ。
彼は墓のそばにあった手頃な石を拾った。用が終り、後ろを向いて歩きだし石を懐にしまおうとした。
その時、ちりん、ちりんと涼やかな音が響いた。先の編み笠を深く被った老人の鈴の音だろうか。
そう思考が過ぎると同時に一陣の風がさらりと豊久の頬を撫でる。
『遅い。待ちくたびれたぞ!』
はっと豊久は足を止めた。
その声音はあまりにも記憶のまま。
すぐ今まで無かったはずの気配を背の後ろに感じた。
豊久は眉を寄せて、込み上げてくる何かに耐えて、実に苦々しく文句をいった。
「…お前がせっかちすぎるのだ」
『正義は神速を尊ぶ!』
「それを言うなら軍は神速を尊ぶだ」
嘆息すると、彼はあの頃とまるで変わらないからりとした笑い声をあげた。
だが次の瞬間、彼の纏う空気が、声音が豹変する。
『――最後まで俺と一緒にいてくれるか?』
真摯な真直ぐな言葉。
豊久は刹那、息が詰まった。
だが次の瞬間、豊久は思わず笑みを漏らしてしまった。
本当はあの頃のように憮然と返事を返そうとしたのに。男の言葉があまりにもおかしかったせいだ。
「最後?――ふん、最後なんて無いだろう?しつこさでは日の本一の貴様だ。極卒に体を裂かれようが、針の山で貫かれようが、大釜で茹られようが、地獄までまとわりついてくるに決まっているくせに。そうだろう?」
そもそも人としての最期ならとうに彼の方が先に終えているのだ。今さら何を言っている。
「馬鹿は死ななきゃ治らない」というがこの男の場合死んでも治らなかったらしい。
もし仮に彼の言う最後が肉体の死を超えた精神だとか魂だとかそういうものを指しているなら、やはり馬鹿である。
その答えは隠居の身になってすぐに豊久がこの場に来たことで示しているのだから。
男はわずかに驚いた気配を発したが、すぐに高らかに言い放った。
『ああ、俺は正義だからな!一途なんだ』
――ちりん。
と耳元で大きな鈴の音が聞こえた。
同時にふっと背後の気配が立ち消える。
後ろを向けばやはりそこには誰もいない。
豊久はふん、と鼻を鳴らして手元の石を弄った。
果たしてたった今、感じた気配は、出来事は、言葉は、
真か幻か――
どちらでも良いな。そう思考を断ち切って、空を見上げた。
良い天気だ。
「…旅日和だな」
豊久は石を懐に入れて、道を歩き出す。
爽やかな夏の風が豊久の前髪を掠めた。
Fin
>>BACK
|