駅を出れば、やはり日常とは違う空気を感じた。
豊久は明日の取引先との打ち合わせのために、遠方に来ていた。今日は現地で泊まりだ。
しかし何処に来ても日本のビジネスホテルは同じようなものだと感想を抱きながら、チェックインを済ませようとしていると、唐突に後ろから衝撃を喰らった。

「よっ!島津!」
「なっ、お前は…!?」

そこにはつい最近豊久の部屋の隣りに越してきた男だった。
なんで出張先でお前の顔なんて見なければいけないんだと豊久が言えば、失礼だな俺だって仕事だという言葉が返って来る。

「あっ、お兄さん。こいつの部屋シングルからツインに変更して。俺も泊まるから。うん、空いてない?そう。じゃあダブルで」

「はぁ!?何を言って」

「良いだろ。そっちの方が安いし」

豊久の抗議もむなしく、男は勝手に決めてキーを貰い、すたすたと先を歩き始めた。
その男――直政の背中を睨みつけて豊久は舌打ちをした。


――まったく、予想外だ。
むっつりとしながら豊久はシャワーを浴びていた。
あの井伊直政という男が隣人になってから、豊久は迷惑しか被ってない。
この短い期間で直政に貸してやったものといえば、調味料、CDR、洗剤、修正テープ、にんくに…など多岐にわたる。その上ベッドが合わない、シーツがガサガサする、枕が破れた等々理由をつけて豊久の部屋に転がりこんでくる。鍵を失くしたと言って真夜中に起こされ、これまた豊久の部屋に転がり込んできたことがすでに4回もある。
ちなみにここ最近で一番腹が立ったことは、故郷の伯父が送ってくれた菓子折りを豊久より先に手をつけたことだ。なんで勝手に箱を開けた!?と怒鳴れば、「食べられないのかと思って」とけろりと答えが返って来た。
まったく!!と呟きながら豊久はがしがしと乱暴に髪を洗う。
あれが社会人だなんて到底信じられない。あんな非常識な人間を雇うなんてどういう人間だ。
毒つきながらバスルームを出ると、直政の姿がなかった。
うんざりするほど大きいベッドにも居ない。
何処に行ったのだろうと訝しく思いながら、とりあえずつけっぱなしのテレビを消そうとする。
しかし屈んでリモコンに手を伸ばした瞬間、後ろから抱きしめられた。
抵抗する間もなく横から唇を奪われる。
「…っ!」
口移しで何かを飲まされた。
唇をふさがれ、舌を良いようにされては嚥下するしかなかった。
かっ、と喉が焼けた。
酒だ。

「…この酒結構美味いだろう?このホテルのセンスはなかなか良いな!」
「馬鹿が!離せっ!」

だが直政は不敵に笑って、さらに深く口付けてきた。
じんと脳が快楽で痺れる。
その隙をついて、豊久はベッドに押し倒された。
豊久にとって最悪なことに、まだ出合って一ヶ月もたたないというのに、二人はいわゆる懇ろな仲というものであった。
しかも最初のきっかけが、『その場のノリ』とか、『なんとなく』と言われる類だったものだから頭が痛い。
何故かこの男と爛れた関係を築いてしまったことが最近の豊久の悩みの種あったが、相手の直政はまったく悩んでいる様子はなく毎度毎度能天気に押し倒してくる。
今度こそ抵抗して、この関係を断たなければと思う。だが。
一番困ったことに直政という男は上手すぎるのだ。キスも、セックスも。
この男の手管に抵抗することが出来る人間がいるのなら本気でお目にかかりたいと思うほど、彼の技術は卓越していた。
ぴちゃぴちゃと唾液が絡み合うやらしげな音が響く。接吻だけで快楽に霞み始めてきた意識が訴えた。
キスが、甘い。
そう認識してしまえば、豊久からほとんど抵抗する気力は失われている。

「っ…明日は大事な打ち合わせだ。遅刻させたら許さんからな…!」

最後の抵抗でぎりりと直政を睨みつける。だがその強面も直政に爽やかに受け流される。

「任せろ」

この男にはつくづく勿体無いと思う端麗な顔に自信に満ちた笑みが広がる。
豊久の纏っていた浴衣がゆっくりと脱がされた。



******


豊久は時計を確かめると、文字通り飛び起きた。
血相を変えて支度を始める。
一方直政の方は、のほほんと窓際のテーブルで茶を啜っている。忌々しいことにこちらはぴしっとスーツを着込んで身仕度を終えている。
なんでもっと早くに起こさない!?と怒鳴ればきょとんとした顔で直政が答える。

「島津、なに慌ててるんだ?」
「間に合わないからに決まっている!あと15分しかない!」
「え―?間に合うだろ5分でトイレ行って、5分で顔洗って、5分で着替えて万事OK」

豊久はこれでもかという鋭い視線で直政を睨付けた。
全然間に合わない。彼は頭が悪い以前に日本語が不自由な男だったのか。
こいつと話しても時間の無駄と結論づけて、豊久は携帯を取り出した。取引相手に謝って遅刻することを伝えなければ。
念のために控えていた取引相手の電話番号をダイヤルするとき、
なぜか豊久は酷く嫌な予感を感じた。
豊久が通話ボタンを押すと、すぐに別の携帯の着信音が響いた。それもすぐ近くで。
豊久の顔の険しさが増した。
呼び出し音が終わる。


『な? だから間に合うって言っただろう?』


直政が悪戯が成功した子供のような様子で、電話越に言った。

「馬鹿な…!担当は確か藤堂という人だと…」
「藤堂は急病でな。急遽俺が代わることになった」

直政は洗練されたとも言える動きで立ち上がり、名刺を差し出した。

「では改めて。株式会社徳川住宅の第二営業部長の井伊直政だ。宜しくな。株式会社島津建設の島津豊久係長殿。現地に行く前の打ち合わせは下で朝食をとりながらやるか」

差し出された名刺にはしっかり超一流企業名と部長という肩書きが印刷されていて。
豊久は今度こそ携帯を手から落としてしまった。



Fin

>>BACK





※当然のことながら実在の会社とはまったく関係ございません(笑)