豊久の朝は早い。
クラスの誰よりも早く教室に来て予習をしている。
だがその朝の静寂さは、ある男によって一瞬で壊される。
ガラリと開いた教室の扉、まっすぐに豊久の机に向かう足。

「島津!次の土曜一緒に映画に行かないか?」

三成は挨拶もそこそこに話を切り出した。
豊久は一瞬だけ目を見開くが、すぐに呆れたように眉をしかめた。

「どうして俺が貴方と…」

「…嫌かな?どうしても?」

三成は哀願するようなまなざしでこちらを見た。
その表情にぐっと来るものがあって、思わず豊久は持っていたペンを取り落としそうになった。それを危ういところで防ぐ。
そしていつものことだが、ここで素直に折れれば良いのに豊久は余計なことを言ってしまう。

「…今日の持久走で1位を取れたら良いですよ」

――馬鹿だ。何を言っているのだ自分は。
非力で有名な生徒会長にそんなことが出来る訳が無い。
自分だって三成と一緒に出かけたいのに、どうして自分はいつもこんなことを言ってしまうのだろう。
豊久が密かに頭を抱えていると、三成はきっぱりと言った。

「わかった。俺1位取るよ」






豊久は地理の授業を受けながら、窓の外を眺めていた。
木曜の3限。
青いジャージを着た2年生が白い息を吐きながら、グランドを走っていた。
三成の順位は現在4位。
いつもは下から数えた方が早い三成の予想外の健闘に、教師も周りも豊久も驚いている。我知らず豊久は三成を応援する。
密かな応援が伝わった――訳では無いだろうが、三成がスパートをかけて一位になる。
豊久は思わず拳を握り締めた。
よし!そのまま。そのまま……
しかしそれは長くは続かなかった。
一時トップに踊り出た三成だったが、みるみるうちに陸上部らしき集団に追い抜かれた。その上コーナー部分でぼてっと無様に転倒した。
――…これで映画はなしか。
自分で無茶な条件を出しながら、やっぱり落胆している自分に、豊久は救いようがないと深々溜め息をついた。
三成はそれでも最後まで諦めずに走るのだろうな。と思って彼の様子を見る。
…おかしい。
転倒してからしばらく立つが起き上がる気配がない。
異変に気付いたのだろう。体育を見学していた吉継が慌てて三成に駆け寄る。生徒達も走るのをやめて三成の様子を伺う。
豊久は青褪めて、がたりと席を立った。


今か今かと待ちわびた昼休みがやっと訪れた。
豊久はチャイムと同時に保健室に向かって走った。
たどり着くと、ベッドで眠る三成のかたわらに吉継がいた。
どうして自分よりも早く吉継が此所にいるのだろう。
疑問が脳裏に浮かんだ瞬間「4限は自習だったのだ」という応えが即座に返って来た。相変わらずこの先輩は聡い。
息を整えてながら、ベッドに近付くと吉継がそっと席を立った。
気を使って退出しようとする吉継に、豊久は頭を下げる。
吉継は去り際冷ややかに釘を刺した。

「保険医は休みだ。だからと言って妙なことはしないように」

その絶対零度の一瞥は警告と怒り。
当然のように自分の思慕はバレていたのは予想していたとして、どうやら自分は穏和な人格者で通っている吉継の怒りを買ってしまったらしい。
豊久はそのことに寒気を覚えながら、吉継が座っていた椅子に座った。
ベッドでは三成が眠っている。貧血で倒れた三成の顔色はまだ少し青い。
豊久はその痛ましさに胸を打たれる。
思わず体温を確かめようと、彼の頬に手をのばしかけた時、三成の瞼がぴくりと動いた。
豊久は慌てて手を引っ込めた。

「………しまづ?」

「先輩、大丈夫ですか?」

まだ覚醒しきれてないのか、三成はぼんやりとしたまなざしでのっそりと起き上がる。
そして起きぬけの気が抜けた声で「……あぁ」と呟いた。

「……そうか…吉継が言ってたな……そっか俺……」

三成の言葉は続かない。
そのまま三成は両手で顔を覆った。
彼の指からこぼれるものに気付いて豊久の声はうわずった。

「な、なんで泣くんですか!」

どうして起き抜けですぐに泣けるんだこの人は!?
豊久は驚いて珍しくもあたふたとしているが、顔を覆っている三成は気付かない。

「だって…」

――だって一緒に映画行きたかったんだ…。
ぐずぐずと鼻をならす三成に豊久が大きく溜め息をついた。

「……俺が代わりに一位を取りました」

「…えっ?」

「一年は4限が体育だったので、その時に。だから――今週の土曜俺と映画にいきませんか」

「えぇ!?でも約束は…」

「ふん。俺と出かけるのは嫌なのですか?」

「そんな…!」

三成は勢い良く首を横に振った。
豊久は憮然としたまま「ふん」と鼻をならした。

「ならば問題ないでしょう」

予想外の展開に三成は目を白黒させたが、豊久の言葉を咀嚼し終えると頬を緩ませた。

「そっか…俺、島津と出かけられるんだ。…嬉しいな」

そう言って三成が本当に嬉しそうにはにかむものだから、豊久はうっかり頬が熱くなる。
慌ててそっぽを向いて赤くなった顔を三成に隠しながら、豊久はどうしようもなく高鳴る心臓の音を感じた。

……あなたのその笑顔は、

反則だ。

豊久は大きく溜め息をついた。

今からこれでは土曜日が思いやられる…。

一方、三成はきょとんとして豊久の奇行をみていた。

Fin

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