8.
取り立てて美人という訳ではなかった。
しかしその凛、とした声は法廷内に良く響いた。
「私は夫に愛されていました」
子供は父親の死を頑なに信じず、閉じこもっている。
弁護士に言われるままそう答え、最後に彼女はそう発言した。
居たたまれず下を向いていた元親が、その言葉に顔を上げる。
彼女はこちらを向いていた。顔色が悪く、唇もかさついているのに、その瞳だけ聡明に皓として輝いていて
あぁまさしくこの女性こそが、彼の妻だった人なのだと認めた。
冷たく堅い、拘置所の床にごろりと転がる。
日はとうに落ちている。代わりに空に上っている月の光が小さい窓から弱弱しく差し込んで、余計部屋を寒々しくしている。
元親は頭の後ろで手を組んで、呟く。
「…これで本当に良かったのか?」
それは罪を犯してから、初めて口にした台詞であった。
元親の意識は、あの日からどこか浮遊している。
通り過ぎる日常は、透明な薄皮の向こうの景色。ふにゃふにゃとふやけた意識は、しかし元就の残された家族の事を考えれば、ぱちんと弾ける。心ばかりか体まで重くなる。あまりに苦しいから、意識の隅に追いやっていた。それを元就の妻の存在によって、己の卑怯さと共につきつけられた。
元就はこうなった事を、後悔していない。
それは推測ではなく、絶対的な確信だった。
そう思うと、ふわふわと体が軽くなる。まるで自分の役目は終わったとでも言うような、達成感とも虚脱感ともいえる感覚。しかし元就の家族から元就を奪ってしまったという事実は、元親の意識を地面に叩きつける。迷うべき余地の無い自己の罪。
元親は彼の妻に嫉妬を覚えたことは一度もない。
ただ自分のせいで女性を悲しませているという罪悪感は、元就と逢瀬を重ねていた頃からあった。
だからといって、もう逢瀬を止めようとは考えられなくて。元就を求める欲求はまるで本能のように強くて、もし我慢していたらなんて考えることも不可能で。
そうやって彼女の夫を抱き続けた挙げ句に、自分は彼を殺したのだ。
私は夫に愛されていました――。
それは事実だ。
元就は間違いなく彼女を愛していたし、子供達を慈しんでいた。
だから元就も辛かったのだろう。彼は他人を容赦なく切り捨てるくせに、好意を持っている相手には酷く弱かったから。仮に元就が彼女を愛していなければ、別の道もあったのではないだろうか。
勿論、彼と自分が出会わなければという仮定も同等に成り立つ話である。
彼女の青ざめた顔色を思い出すと、口の中が苦くなる。彼女は夫の訃報を聞いたあと、持病を悪化させて倒れたという。
元親は、腕を伸ばし虚空を撫でる。
「……なぁ…ほんとうに、これで」
良かったのか。
何度も頬をなぞった指は、彼の人感触をありありと覚えている。
――もとなり
記憶の中に居る彼が外に現れる。微笑んで幸福感に浸ろうとした瞬間、脳裏に明日の事がよぎる。重く吐いた息に、泡沫の夢は霧散し水泡に帰る。
結局弁護士の熱心な説得に応じてしまった。しかし今でもその自分の判断に自信がない。
ただあれを提出したことで、この違和感が少しでも無くなってくれるならばいい。
この裁判は何かがズレている。
元親には裁判官も検事も、味方であるはずの弁護士ですら、まるで自分とまったく違う生物のように見える。
一体あの中の何人が、あのすべてを焼き付くような快楽を知っているのだろう。
昇りつめて、昇りつめて、その果てで死んでしまいたい。
そう一人の男に願わせてしまうほどの、
目も眩む程の、頂を――。
何も知らない連中に、自分の罪も罰も、これからも、決められてしまうのかと思うと酷くやるせなかった。
その日、夢を見た。
『死にたい死にたいって言っているけど、俺と死のうとは考えねぇのか?』
元親は一度も心中しようと言った事はない。独占欲の強い彼にしては意外なことだと思った。
『貴様はまだ若いからな』
白く、白く光るシーツの波の中で、ゆるりと彼は不思議な笑みを浮かべた。
あぁこれは夢じゃない。
これは彼に「意気地なし」と詰られた、あの朝の―――
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