9.
傍聴席と被告人席は意外と近い。
「証拠…非公開!?」
私語厳禁の法廷で、動揺のあまり飛び出した声が元親に届く。
「静粛に!これから行う録音の再生は善良な風俗を乱すおそれがあるため、公開を禁止します。傍聴人は退廷して下さい」
あからさまに不満げに出ていく傍聴人に、元親は苦笑した。
それはそうだろう。
証拠として事件のすべてを――勿論元親と元就の秘め事も――録音したテープがあると言ったら、大抵の人間は好奇心を擽られる。
傍聴席ががらりと空いた法廷は、まるで放課後の教室のような寂しさがある。
その中で流れ出す音は余りにも場違いで、戸惑う検察官や裁判官に元親は忍び笑いを浮かべた。
獣じみた呼吸と喘声。
それは間違いなく、元親と元就のもの。
最初は戯れからだった。
好いた相手との行為を録音してみたいという好色は、大多数の男が持つ。
睦言に交えて元就にテープのことを話すと「呆れてものも言えぬ」と溜息を漏らしたが、嫌がることはなかった。
それどころか、彼の口の端に浮かんだ笑みを元親は見逃さなかった。
それは男を独占しきったことを喜ぶ、女の笑みのによく似ていた。
喘ぎ声を遮るように花火の音がするから、テープは一度目の交わりの時のものなのだろう。
やはりどこか現実感のないまま聞いていると、「ころせ…」と言う声が聞こえた。
その言葉に意識がクリアになる。
胸に鋭い痛みが走る。
元々テープを証拠として提出するつもりはなかった。
これ以上2人の関係を晒すのは耐えられない。テープは墓場まで持っていこうと考えていた。
それを変えたのは弁護士に切々と説得されてしまったからだ。ありのままの事実を見せて、正しい判決をしてもらいたくはないですか?それは元親が今最も望むもので、首を縦に降らざるをえなかった。
――こんなものを裁判に出したなんて言ったら、お前は怒るだろうか
弁護士がテープを変える。
『愛してる』
『殺せ、あぁう、んくっ…』
『愛してる…っ』
『はぁくっ、かはっっ!……コロセ…っ!』
明け方の情事。
二本目のテープは犯行そのものが録音してあるもののようだ。
阿呆のように愛していると繰り返している元親と、執拗に殺害されることを求める元就。
あぁ、駄目だ。
そろそろ…――
『殺してくれ』
『愛しているなら』
『このまま死にたい。』
耳を塞いだ掌をすり抜けて、届いた言葉
続いて、ごぼりと不自然な呼吸音。
元親は声をあげそうになった。
「やめてくれ!」言葉は法廷を震わさない代わりに、頭蓋骨の内側に木霊する。
元親は頭を抱えた。最初の空虚感が嘘のようにぐちゃぐちゃだ。
元就、元就、もとなり!狂ったように心が叫んでいる。
「…以上で証拠は終わりですか?」
「もう一つあります」
弁護士が平静に答える。
何を。事件のテープを聞かせて、これ以上何を裁判の奴らに聞かせるのか。
もう止めてくれ。
元親の無音の叫びを無視して、弁護士はテープをセットする。
『元親』
はっ、とする
凛と落ち着いたその声は、いつも自分を呼ぶ元就の声だ。
『…お前と我は、どうしてこんな所まで来てしまったのだろうな。もう、この世のすべてが遠すぎる。我らのことは、きっともう誰もわからぬだろう』
元親は思わず腰をあげそうになる。
いつだ。いつの録音なんだ、これは。こんな録音自分は知らない。
『…お前が手を伸ばさなければ。我がその手を払い続けていれば良かったか?だがその仮定も無意味すぎるというものだろう。お前がお前であるかぎり、我が我である限り歩む道はこれしかなかったのであろうよ…』
その時カタンとテープの中で、何かが落ちた。
その音でわかった。浅い眠りの中で聞いたのは、時計が落ちた音。
これは、元親の知らない、明け方の交わり――元就が死ぬ直前の録音だ。
『まったく正気の沙汰とは、とても言えぬな。我が40を過ぎても、お前は我を抱きたがって、まるで駄々っ子のようで。
子を持ち、教鞭を持って生徒を導くはずの教師が、若い男に骨抜きにされて。挙句にこんなことまでしでかそうとしていて…それでも、もう限界だ。我の中で獣が暴れだして壊れてしまう。お前の強すぎる執着は、ちっぽけなこの体では全然足りなくて。溢れ出して、暴れだして、だから、だからもう…』
あぁ、そうだ。
元親は唐突に、自分の殺意の正体に気づく。
元就は今にも壊れてしまいそうで。
だから、自分が壊してあげなければいけないと思った。
支離滅裂な殺人動機。きっと他人に話したら、笑い飛ばされてしまう。
『本当に勝手だな。我は。こんなことに一番の幸福を見出して、皆に迷惑をかけて、犠牲をだして、そしてとうとう、お前の意思すら踏みにじる。自分の欲望に吐き気がする。酷く醜悪で、見るに耐えぬ。それでも、我は望みを止めることが出来ない。それでもお前は叶えてくれるだろう。…それでも我は、お前が良い。
お前じゃなければ駄目だ。他の誰でもないお前がいい、元親。お前に我のすべてを奪って欲しい』
熱に浮かされたような、早い口調。
それはとても彼とは思えぬ、あるいはこの上なく彼らしい情熱的な告白だった。
『…本当に勝手な話だ。元親、我を恨め。酷く、酷く恨んでくれて良い。
だから、苦しむな、悔やむな、哀しむな…というのも、勝手すぎる話だな。』
苦笑を漏らす彼の息が、震えている。
それは、それから起こることへの高揚からか、それとも罪の意識からだったのだろうか。
彼はこれを家の何処で吹き込んだのだろう。
『お前に愛されていることが嬉しかった。一つ一つ体の隅々までお前が触れてくれることが喜びだった。こんな事になっても我はお前と出会えたことに、少しも後悔を覚えることが出来ぬ…』
それからしばらく沈黙が落ちる。
『……元親』
さらに深く、深く沈黙が落ちる中
元親は手に取るようにわかった。
彼は言おうか、言わないか迷って、
そして息を大きく吸って、眉を寄せて、言ったのだ。
『――愛してる。』
痛みを堪えるように吐き出された言葉は彼の口から初めて聞くもので。
それは、まるで謝罪のようで切なかった。
ぷつり、とテープが終わる。
ぽたりと、何かが元親の頬に落ちた。
愛されているのは、わかっていたつもりだけど。
それでも臆病な心はどこかで、元就に利用されていていたのではないかと思っていて。元就はずっと前から死にたがりだったのかもしれないと、ちらりと考えが過ぎって。
そんなものは彼に対する裏切りでしか、なかったというのに。
自分はこんなにも、確かに愛されていたのに。
幸せだから。
その一言が耳に残る。
気がつけば、涙が溢れていた。
涙腺が壊れたように、涙が次から次へ流れ落ちていく。
元親は涙を止めることができなかった。
止めようとも思わなかった。
その、
言葉が欲しくて。
その、一言が欲しくて。 自分は―――
「――最終判決。
被告人長曾我部元親を懲役八年に処す。
罰条、刑法一九九条。罪名、殺人罪。」
元親は静かにそれを聞いた。
代わりに周りの人間がおぉっと大きな反応を示す。
「被告人と被害者は六年前に大学構内で出会い、以後交際を重ね、きわめて親密な関係になるが、それと供に被害者は性的快感を強め、やがてその頂点で殺されることを望むようになる。」
滔滔と元親と元就の交際の経歴を述べる。
無機質な単語の羅列。自分達の馴れ初めが他人事ようにしか思えない。
「――平成×年8月5日、自室において性交中以前からの被害者の要請を受け入れ、被害者の頸部を絞め、死に至らしめたものである。」
「事実確定の説明。
まず弁護士側の主張する嘱託殺人については、本件のような性的関係の最中における瞬間的な興奮や、戯れによる発言は嘱託殺人の要件を満たしているとはいえない。よって嘱託殺人は成立しない。
被告人の行為は被害者からの度重なる要請を受けて行ったことではあるが、被告人の年齢、知的レベルを考慮するとそれが社会道徳的に異常な許されざる行為であることは充分予測できたはずである。
しかしながら、被告人が成人しているとはいえ、学生という立場であることから――」
「ちがう!!」
元親が叫んだ。そのあまりの大きさに誰もが驚く。
たださえ、水を打ったように静まっていた法廷内の空気が張り詰める
「違う!この裁判は何もかも間違っている!!」
かっと左目の紅眼で威圧する。
眼帯は心証が悪くなるからと、取り外されている。
もしかしたら彼が一番、自分の中で愛していたかもしれない、それを本当は晒したくなどなかった。
「法律だ。刑法だ。あんたらは屁理屈ばかりいっている。そんなもんは頭でっかちのエリートが作った、ただの紙の束でしかねぇだろうが!」
判決時に被告人が声をあげるなど、とても許される筈が無い。
刑務官が四方から元親に飛びかかる。
肩をとられ拘束されても、元親は牙をたてて咬みつく。手錠の鎖じゃらじゃらと煩い。
「今の文に、その紙に、どこに俺がいた。どこに元就がいるっていうんだよ!!」
拘束を振り払って、叫ぶ。
ない。何もなかった。
壇上にたった元就の比類の無い鋭さも
初めて触れた彼の肌も。
自分は変わってしまったのだと、零した涙の透明な輝きも。
殺せと執拗に、切実に訴えた彼の声も
元就の肌に妖しく咲いた、あの大輪の炎華も。
人知れず残していった、テープの告白も。
至福と引き替えに得てしまった。自分の立っている地面が崩れそうな不安を抱えて、身を寄せあった。
離れては死んでしまう。生きるために、生きていくために。獣の行為を続けた、あの狂いそうな必死さも。
「あんたらは誰も。誰一人として、元就のことをわかっていねぇ!」
自分は左目まで晒して、秘め事のテープまで提出したのに。
上辺の事実ばかりなぞって、誰も2人の輪郭ですら触れていない。
毛利元就は好色で、若い生徒に手を出した挙げ句に殺された。
それが今の世に一般に知らされている元就の顔だと聞いた時の衝撃。
元親の胸は怒りで燃え上がっている。
耐えられない、理不尽さ。
「あんたらは何もわっかっちゃいない!!俺はあいつに心底惚れていて、あいつは心底それを望んでいて、だから…」
「静かにしろ!」
刑務官に怒鳴られて、肩をぐいと引っ張られ、扉に連れていかれる。
扉をくぐる前。一番前席で座っていた彼の妻と眼があった。
元親は腕をふりほどき、彼女に向かって土下座した。額が床についた。
叱責されて、無理やり立たたせられる。もう一度視線を向ければ、彼女の隣に座る黒い学制服を来た少年と目があった。
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