私は近くにあった小屋に住み、彼を見守り続けていた。
彼は勿論変わらぬまま、氷の中で眠っている。
だが少しづつ彼の纏う氷が薄くなっていくことに、私は激しい不安を覚えていた。
夏を終え秋を迎えようという頃、その男はやってきた。
「あんたぁ、誰だい?」
小屋に入って来た男は、疑わしそうに私を見た。
年は四十を過ぎるか過ぎないかという中年の男。
偏屈そうな表情は知り合いの刀鍛冶を思い出すが、それでいて商人のような気安さも感じる。
世慣れているようにも見えるし、浮世離れしているようにも見える。捉えどころの無い不思議な雰囲気を持っている。
見た瞬間、この男こそ私の待ちわびた人物だと直感した。
「お待ちしていました」
「へっ?」
予想外の反応だったのだろう。男は間の抜けた声を出す。
「私は内府殿から、以後彼の方のお世話をするように遣わされた者です」
「世話…?内府様のご指示はこれ以上人の手を加えず、氷が溶けたらそのままにせよとのご指示だったが…」
私はそこで驚いた表情を彼に見せた。
「ご存じないのですか?出来る限り長くあの姿のまま保存しておくようにと指示は変わったのです」
「なんだって?そんな話は聞いてないぞ!」
「それはおかしい。江戸から貴方に文が出されたはずです」
「いや、そんなものは届いていない」
「ふむ……」
私は考え込むふりをして、思い付いたように「…あぁ」と声をあげた。
「先々月の東海道は確か……」
「・・・あぁ!土砂で大道が塞がったんだ!あれには俺も巻き込まれそうになった・・・そうか、では文はあれに巻き込まれて…」
男は悼ましそうに顔を歪めた。
それから彼は値踏みするように私を見た。家康の使いにしては私の身なりが粗末だと思われているのだろう。
私は気にせず堂々とした。すると、どうやら農民の出ではないようだと思ったらしい。
「…失礼しました。私は内府様に雇われている氷連の一族の者です」
男は平城京の時代から氷室を管理する一族の姓を名乗り、口調を改めた。
「ではこれからは貴方様とお世話すればよろしいので?」
「いえ、これからは私が一人で。氷連殿からそのための術を学ぶようにと」
「貴方様が?一人で?」
「ご指示です」
「…わかりました。まずは状態を見ましょう」
二人は間を置かず鍾乳洞に向かった。
彼を見て男は感嘆の声をあげる。
「これは凄い。まだこれほどの厚さがあるとは!これならこの鍾乳洞で直接製氷も出来るかもしれない」
氷連の男は熱っぽく興奮している。私は眉をひそめた。
「そうですか?私が来た時より随分と薄くなってきたんですが。この分だといつまでもつかと…」
「いえ。もう夏は終わりましたし、この厚さがあれば充分冬まで保ちます。純水で作られた氷は保存が良ければ一年保つんです」
すぐに冷静になった男は、氷から結露を除去し始めた。
「水は氷の天敵です。水は氷より温度が高い。その癖すぐに現れる」
「そういえば、雪も氷と実は相性が良くないと聞きます」
「よくご存じで。雪は氷を傷めます。美しい氷を作るためには、雪を出来る限り排除しなければなりません。製氷中に雪が降り始めたらそれこそ昼夜問わず雪かきです。重労働ですよ」
でもそうしなければ、透けるような美しい氷は出来ないのです。と男は言葉を繋げた。
その言葉を裏付けるように、男は職人筋の人間にしては体格が良かった。
「氷を作るのに適した条件は空気が良く、風が少なく、埃がまいにくく、一日中日陰であること。骨まで染みるような寒さが長く続き、それでいて雪が降らない場所。――これが出来た場所はまさしくそれらの条件が揃った美しい池でした」
男は目を細めて彼を見た。我が子を見るような暖かな視線だ。
私は想像した。
池に沈む彼は段々と氷の衣を纏っていく。
男は池に落ちた埃りを掬い、天気を伺い、日々彼の様子を窺う。
私は自らの想像に妬心を覚えた。
「…しかし内府様は何を考えていらっしゃるのやら…」
作業を終えた男がぼやく。
「…実は、此所へは彼の方を埋葬してやるために来たんだ。早ければ氷がすべて溶けてるころだったから…」
口調が少し元に戻った男が、私を見た。
「内府様はここへは?」
「いえ、一度も」
「なんと冷たい」
おいたわしや。そう言って氷連の男は彼を哀れんだ。
それは違うかもしれない、と私は思った。
私は家康がここに来ないのは、生きていた彼を愛してたからだと感じていた。
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