夏は薄くなった氷ごしに彼の姿を見る事が出来た。
だが人の体温は溶けやすくなっている氷には高すぎるため、すぐにその場を立ち去らなければならい。
それに比べ冬は分厚い氷ごしにしか彼を見られないが、さして時間を気にせず側にいる事が出来た。
彼に出会ってから数年。
鍾乳洞で直接製氷が可能だとわかった今では、彼は石棺に納められている。
夏に薄くなった氷の衣を、冬に棺へ冷えた水を注ぎ新調する。
今は製氷が終わり、彼は厚い氷の向こうで眠っている。
今回の氷は最高の出来栄えだ。
水と変わらぬ透明度を持つ、固い氷。
途中で寒さが緩んだせで薄く膜を張った氷をを壊して一から作り直すことになったが、その甲斐あって最初に見た氷連の男が作った氷にまったく見劣りがしない。
ここまでのものを作るのに何度失敗したことか。
手はかじかみつくして、もはやあまり感覚が無い。髪も伸びて、肌の色も少し白くなった。
だが私の変化を余所に、彼は一切の変化を拒みそこにあり続けている。
私は元来武骨者で、風流を解したことがなかったが、彼だけは手放しで称賛出来る。
それは、終わってしまったものの美しさ。
彼の生は完結し、もう誰にも彼を汚すことは出来ない。
井伊直政が生まれ、戦い、死んだ軌跡の結果が凝縮したもの――それが彼だ。
彼は天下人の夢の残骸。彼は私の夢そのもの。
家康は生きていた井伊直政を愛していた。私は死んでしまった井伊直政を愛している。
私の恋情は当然ながら、相互の理解だとか心の交流を前提としていない。
ただただ私が一方的に死んでしまっている彼に懸想する――――邪恋だ。
日の下を歩く者には死んだ者を愛するなどおぞましい、心を求めず姿だけ執着する愛など間違っていると糾弾される。
欲に墜ち悪辣の道を行く者にすら、死んだ者に情をかけるなど利のないことと嘲笑されるだろう。
私はそっと冷たい彼の表面に触れた。
「……井伊、直政殿…」
彼を呼ぶ声は届くはずも無く、白く凍える。
死んでいるのに、在る彼。
在るのに、死んでいる私。
私と彼は似ているのに、決定的に断絶している
だがその完全な断絶こそ、私の望みの全てであった。
私の慕情は積もるばかりで、成就することは永遠にない。
しかしそんなことは、心底どうでも良かった。
一方的だからこそ壊れることもない。その事実だけが私にとって重要だった。
――あぁ、
こんなにも近くて、遠い。
だから、狂おしい程、愛しい。
もう一度、直政殿と呼んだ。
当然答えはない。
私の恋情の熱が籠った呼び声などを受け入れる余地は、冷たい壁に僅かたりと存在しない。
私は満足し、うっとりと笑みを浮かべた。
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