一度だけ。
私が世話になっていた老夫婦の家に、彼自ら訪れた事がある。
此所で男を一人匿っているのではないか。彼は問い質したが、老夫婦は首を横に振った。
誓って罰を与える訳ではないから、正直に答えて欲しい。彼の言葉には懇願の色さえあったが、純朴で頑固な夫妻は否定し続けた。
すると彼はそうかと一言残して、あっさりと城に帰っていった。

唯一、戦の後、生きた彼と私が交錯する可能性があった日。

もしあの時彼と顔を合わせていれば、きっと何かが違っていただろう。
だが今よりも激しい執着を持つ事はなかったに違いない。


******


記録的な猛暑だった。


「…ここも駄目か」

私は苦々しく、舌打ちした。
小屋の下を深く堀り進めた底には、予備の氷が保存されているはずであった。
ところがそこには既に固い氷の姿は跡形もなく、熱を伝えないためにかぶせていた井草がたぷたぷと水に浮かんでいた。
溜め池で作った氷も、鍾乳洞の中で急速に溶け始めている。
雨が降らず、川が干からびる。
大飢饉が起こる予兆だ。そう民草が口々に言い出し始めた時、私はすぐに氷を売るのをやめた。
収入源がなくなり、草の根を食む生活が続いている。だがそんなことはまるで苦ではなかった。
梯子を上り、外に出る。
とろりと汗が顎を伝った。
私は空を睨み付ける。


天よ、これ以上その身を焦がしてくれるな。
無駄と知りながら、私は天に釘を刺した。




だがこの世で天より他に、裏切りが得意なものはない。

月は満ち、時の砂は落ちた。




私は呆然と、それでいて少しの変化も見逃してはなるものかという熱を込めて、その光景を見ていた。
彼の纏う氷衣はいよいよ薄くなって。もうあと一夜も保たないことがわかった。
まだまだ残酷なほど蒸し暑い、夏の夜。

終わりの刻が来たのだ。

そもそもが奇跡のような偶然が積み重なって成り立っていた関係だ。
細糸の上より危うく、いつ毀れてもおかしくなかった。


一つの諦めを抱きながらも、私はそれ以上彼に近付くことが出来なかった。
目の前にとても受け入れがたい現実があり、足が竦んで動かない。
それは遠き日、父の墓の前に立った時の現象と酷似していた。

この季節にこんなに長い時間、彼を眺めるのはこれが初めてだった。

氷が溶け、最初に露出したのは爪先だった。
私は竦む足を叱咤して、恐る恐る彼の傍に近づき確かめた。
やはり、溶けている。
強い喪失感を覚えながら、私はそっと足の親指を口に含んだ。
冷たくて硬い。驚くほど表面がつるつるとしている。
まるで鉱物を食んでいるような感触。

瞬間、激しい衝動が雷のように体を走った。

――終わりたくない。
――終わりたくないのだ!

私はすぐに支度を始めた。
山のずっと上の方が死体は腐りにくいという話を咄嗟に思い出したのだ。
細心の注意を払って彼の身を起こす。ぱきぱきと表面の氷に亀裂が走った。
袈裟でくるみ、慎重に彼を荷に移す。その荷を背負おって、私は足早に出発した。
むわっとした熱気が私と彼を出迎える。私は熱気を降り払うように、ひたすら上を目指した。
かつてこの山にあった山城はすでになく、別の場所に移っている。つまり私の素姓を質し、遮る者はなかった。
肩の荷が肌に食い込み、息が上がる。だが恐れと焦りで、汗は引いてしまっていた。
ぽたぽた、と彼から水が流れ落ちている。
私は走り始めた。酷い脅迫観念に苛まれる。
足を止めれば、彼を奪われてしまう。喪ってしまう。

どさり、と後ろに何かが落ちた。
同時に背の荷物が少し軽くなる。

腕だ。
膿に犯された彼の右腕が落ちた。

くらりと視界が揺れた。
信じられないことが起きているという思いが、再び、湧き起った。

右腕を拾いあげて、私は激しい怒りに戦慄く。
理不尽だ。とてつもなく理不尽なことが起きている。
この爛れた右腕も彼を構成する重要な一部なのに。その醜悪さも完成した彼の美しさだというのに。
それを分かつなど、許しがたい無粋さだ。

荒れ狂う感情のまま、袈裟を取って彼を見た私は声をあげた。それは自分の声とは思えない程高く細い声だった。

氷が、溶けきってしまっている。

震える指で触れれば、濡れているものの、わずかに表面が温くなっていた。
私は怒りのあまり我を失いかけた。
許せない。到底こんな事は許せない!

だが激情が駆け抜けた後は、圧倒的な哀しみと絶望が私を襲った。
私は堪らずに彼を掻き抱いた。叫ぶように慟哭する。

ずっと大切にしてきたのに!
もう私には彼しか無いというのに!

こんなにも容易く奪われてしまうのか。簡単に毀されてしまうのか。

私の脳裏に「死」の像が浮かんだ。
彼が壊れてしまうのなら、いっそ私も一緒に壊れて――

だが残念ながらその案は、破棄しなければならなかった。

自死はまだ微かに残っている「島津豊久」としての矜持が許さなかったし、何より私が死んでしまったら、私と彼は同じになってしまう。
それは駄目だった。私は私と異質な存在である彼を愛しているのだから。

おかしなことに私には死の恐怖はなく、ただ彼への絶対的な執着の喪失を何よりも恐れていた。

私は途方に暮れてしまった。
まるでどこまでも地平線が続く原野に、ぽつんと取り残されてしまったように心許無い。

どうすれば良いのだ。

息が苦しい。あまりに感情の波が激しすぎて体がついてこれない。

どこに、
どこに行けば良いのだ。

頭がくらくらする。
もう涙も出ない程、憔悴してしまっている。


どこに行けば、このままでいられるのか。


ふと背中に暖かな光を感じた。

振り向いて私は安堵の笑みを浮かべる。



――そこに、行けば良いのか。



彼を抱き抱えた私は、そこに向かった。


白い、白い世界へ――――。








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