――落馬。
あの時。
味方を毛利陣地へ向かわせるために、踏みとどまった鳥頭坂。
視界もろくに利かない、ほとんど正気を失った状態で赤備えの先頭にいる男に突っ込んでいった。
手ごたえがあった。
重い瞼をあげれば刀が深々と敵将の太ももを貫いている。
それを確認すると、豊久の足の力も抜けて。
崩れ落ちる。
と思った瞬間。
――行かせてはならぬ。
敵を味方のところへ。伯父のところへ行かせては……――!
ただただそのことが頭を占め、豊久は妄執とも言える気力で敵将の足にかじりついた。
せめて、この男だけでも道連れに…
だが、そこで意識が途切れた。
その後知覚したのは、せいぜい頬にあたった土の冷たさと
『…死してなお俺の歩みを止めんとするか……。島津……豊久……。敵ながら見上げた男だ…』
という言葉だった。
その言葉。
馬上から地に伏せた豊久に向けた言葉にしては、そういえばずっと近くから聞こえた気がして
苦しげに咳き込む微かな音も、頼りない耳で拾っていて
――そうか。
今、思い返して、わかった。
自分は彼を馬から引きずり落としていたのだ。
彼を落馬させたのは自分。
すなわち、直政を死に追い込もうとしているのは結局豊久に他ならない。
豊久は咄嗟に自分の腕を強く掴んだ。そうしなければ無様に震えだしてしまいそうだった。
莫迦な。自分は何を動揺している?こんなことは戦乱の世の習いだろう。
何故こんなにも胸が痛いのだ。思考がかき乱されるのだ。どうしてこんな激しい恐怖を感じなければならない。
豊久は直政に事実を確かめようとした。
だがその言葉は音になることなく消える。問い正したところで決して彼は肯定すまい。彼が病の原因を口にしたのは豊久がそのことを覚えてないと踏んでいるからだ。
豊久は視線を畳みに落としながら、最後の問いを口にした。
「…何故、佐土原に旗指物を置いて行った。お前の知性の欠片もない旗など佐土原には不要だ」
本当はもう何となくその問いの答えはわかっていたのだけど。
あの時彼が佐土原を去る前に「笑え」とねだってきた言葉に懇願の響きすらあったと今では痛みを伴いながら理解できるのだけど。
豊久の言葉に直政が憤慨する。
「なっ、悪趣味とはなんだ!貴様!あれは殿が俺に下さった唯一無二の代物だぞ!」
「そんなに大切なら後生大事に持っていろ。今日はそれを返しに来たのだ」
そう言うとぴたりと直政は一度言葉を止めた。
静かに凪いだその表情に、嫌な予感がした。
「悪いが、島津。それは受け取れぬ」
「なにを」
「旗は持って帰ってくれ。俺はお前に持っていて欲しいのだ。」
「断る!」
「島津、頼む。この通りだ」
直政は布団に額をつけた。
それはあまりにもこの男らしい、豪快な土下座だった。
「断ると言っている!!」
豊久は乱暴に地に伏せる直政の髪の毛を鷲掴みにして引っ張った。
直政は苦痛に顔を歪める。
「嫌いなお前の願いなど誰が聞くものか!どうしてもというなら自分で旗をもう一度立てに来い!」
――本当はその言葉を訂正するために訪れたはずであった。違う言葉を告げるはずだった。
だが豊久は同じ言葉を告げ、直政もふっと笑う。
「…お前に嫌いと言われると安心する。何故だろうな…」
不意に直政が見せた柔らかな表情と、言葉に彼に髪を掴んでいた手の力が緩む。
その隙をついて直政が豊久の唇を奪った。
唇が角度を変えて、何度も重なる。
だからその言葉も至極近い距離で響いた。
「…瑚楼草を探してお前に渡したのはな、お前に生きて欲しかったからだ。お前に生きていて欲しかった」」
「……勝手な…っ!」
そのとおり。と答えて、直政がからりと笑った。
そして真っ直ぐな視線で豊久を射抜いた。
「島津。貴様のすべてを抱きたい。――黙って俺に抱かれろ」
言い終わるや否や、豊久は布団に押し倒された。
豊久はぐっと布団に爪をたてた。
「この、卑怯者め…!」
直政は軽く、そうだなと答える。
豊久に覆いかぶさり、豊久の力を入れすぎて白くなっている手に自分の手を重ねて囁いた。
「島津好きだ」
――卑怯だ。
こんな真似は。そんな言葉は卑怯以外何者でもない。
「好きだ」
こんなに顔色が悪いのに、その声音も瞳も以前とまったく変わらない。聞き慣れた響きに体が熱くざわめきだす。
「言う…な…莫迦…!」
そう言いながらも、豊久は下から直政の右肩を支えてやる。彼の右腕が自分の体重を支えているのが辛いとばかりに震えているのに気づいたからだ。
直政は「悪い」と短く礼を言って、豊久の首筋を舌でなぞった。
豊久は「くっ」と小さく掠れた声を洩らす。
そして恨みがましそうに文句を言った。
「…っお前本当は…、俺の気持ちなんてとうの昔に気づいていたのだろう……!?」
直政はその問いに謎めいた笑みを閃かせ、好きだとまた呟いて、豊久の胸に顔を寄せた。
酷い快楽だった。
体がばらばらに千切れて、自我すら霧散しそうな。
豊久は泣いて、よがった。
果てのない快楽と、
こんなに激しく自分を抱いたら直政が死んでしまうのではないかという恐怖の狭間で
豊久は流れ出す涙を止めることが出来なかった。
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