豊久はむっつりと書面を睨んだ。
それを上からひょいと赤鬼が覗きこんできた。
「なんだ。数が合わないのか?」
酒の席でまぐわってから何故か佐土原に居ついてしまった直政である。
帰れと言えば「俺の尻を舐める約束だ!」などと家臣の前でとんでもないことを言い出すのだ。豊久はもう言葉を失って――この面倒な男を、放っておくことにした。
件の男は豊久が読んでいた今年度の収穫を示す書面を眺め、机の上の関連書面を右から左へとざっと目を通す。
そして豊久に背を向けて部屋の中を歩き出した。
「うーむ」と何やらいかにも考えているようでまったく考えていないような声を出して唸っている。
直政の奇異な行動を一々突っ込む気にもなれず、豊久は別の仕事をしようとする。
その時、わかった!と直政が素っ頓狂な声をあげた。
見れば直政は奇妙な姿勢を取っていた。
体は前を向いたまま、手を腰にやり背中をぐきりと後ろに大きくのけぞらせている。
彼は逆さまになった顔で高らかに言いあげた。
「その書面の上から二番!それと下から四番の村が悪!その報告は嘘だ!」
豊久は鼻で笑った。書面を一見しただけで何がわかる。しかし軽い調子で続く直政の言葉に、豊久の表情は引き締まっていった。
直政の説明は理にかなっていた。
そして豊久はとうの昔に忘却の彼方へ追いやっていたこの男の風評を思い出した。
曰く、井伊直政は徳川家康の片腕である。
曰く、井伊直政は知勇兼備の将である。
あの智将と名高い小早川隆景に「直政は小身なれど、天下の政道相成るべき器量あり」と言わしめた人物だということは豊久も知っていたが、そんなことはあの関ヶ原で対面した時に一瞬で霧散してしまったのだ。
猪武者を絵に描いたこの男に知略などあろうはずもない。知勇兼備など性質の悪すぎる世迷い言だと断定した。
だが今、目の前の男の言葉から知略の一片が窺えたのだ。その上彼は計数にも明るいようで、豊久は驚くほかない。
しかし明哲な言葉とは裏腹に、直政は飛んだり跳ねたりと落ち着かない。まるで頭を動かすときは体も動かさなければという奇妙さだ。
これはいわゆる天才肌というものなのかもしれぬと豊久は思った。
直政の説明は続いていた。すでに内政談義になっている直政の話を聞くのは有意義ではあるのだが、仕事が終わらなくなる。豊久は体を机に向きなおし、話題を変えることにした。
「ふん、そう言えば貴様は佐和山の平定を家康公に命じられているのではなかったか。こんな所にいて良いのか?」
「それなら、もう終わった」
「終わった?」
「うむ。石田三成の志は悪だが、民政には正義があったからな。俺はその正義を踏襲したまでのこと。石田三成が民に好かれて多少やりにくかったか、なに、正義をもってすれば民の心は和らぐというもの。治めるのは容易かったぞ!」
豊久は黙った。佐和山を治めることが言葉で言う程、容易いことだとは思えなかった。
敗軍の総大将の領地をあっさりと掌握してみせたというならば、直政の政治能力は本物なのだろう。
「だからな。此処にいるのはその休暇みたいなもので、殿からもちゃんと…うわっ!!」
どさっと大きな音がした。
後ろを向けば直政が足首を押さえて転げまわっている。
「…何をしている?」
「と、跳んでたら、着地に失敗した。いたたた」
豊久は呆れて大きな溜息を吐いた。
佐土原城主は仕方なく小姓に薬を持って来させたのだった。
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