太平の世が訪れた後も、豊久が鍛錬を欠かしたことはない。
ひとしきり稽古に集中して、豊久は刀を下ろした。手ぬぐいで汗を拭う。
――静かだ。
勿論城には人の気配があるのだが、数日前まで滞在していた人物が居るか居ないかでは雲泥の差だ。
まるで嵐のようだった。突然現われ辺りを乱し、驚くほどあっさりと去ってゆく。
そう思うと、たった今まで鍛錬で落ち着いていた精神に小波が立つ。
『好きだ』
何度も閨で告げられた言葉。彼があまりに何度も伝えて来るものだから、彼の声音が耳に、脳の奥に――否、体の隅々に焼き付いている。
豊久はその言葉に明確な答えを返していなかった。直政も特に答えを求めてこなかったからだ。
『"お前のことが嫌いだ"と言いながらだったら、曇り一つない笑顔を見せてやっても良い』
あの時発した言葉は売り言葉に買い言葉。決して深い意味があったわけではない。
だが、その言葉を豊久の答えとあの男は取ってしまった。
彼がその言葉に驚いた理由は豊久にだってわかっている。嫌いな男に抱かれることを今まで承諾していたのかという驚きだろう。
無論そんなことはない。いや嫌いなことも確かなのだが、それだけではない。
それだけなら、体を重ねるのを許したりしない。
それでも彼は豊久の言葉に納得して帰ってしまったのだ。
彼の驚きに目を見張った表情と、そうかと頷いたときの微笑を思い出すと胸が掻き乱される。
特に爽涼としたあの微笑みは、思い出すたびに何故か豊久は落ち着かなくさせる。
なんなのだろう、これは――?
「……お館様」
そこへおずおずと家臣が声をかけてきた。
豊久は思考を切り替えた。縁側に腰をかけ落ち着いた様子で答えた。
「なんだ?」
「はっ…実は村に行く際に侍女たちが山で見つけたものがございまして」
豊久は眉を顰めた。この家臣がここまで言葉を濁して報告するのは珍しい。
「それは?」
「はっ、青い旗指物でございます」
嫌な予感を覚えて豊久は低い声で唸った。
「まさか…その旗指物には『一番乗り』と書かれているのか?」
「その通りでございます」
家臣が困り顔で答えた。
豊久は溜息をついた。何を考えているのだ、あの男は。
「いかが致しましょう?よろしければ私めが佐和山までお送りしますが」
島津の者は直政に好意的だ。
関ヶ原で鬼島津と互角に戦い抜いた武。敵対関係であったにも関わらず義弘の要請を快く了承し、徳川と島津を仲立ちした粋。これで嫌うほうが難しい。
豊久は家臣の言葉に少し考え込む。
「いや…まず文を出して指示を仰ぐ」
その言葉通り文をしたためたとき、豊久は緊張した様子でもう一文付け足した。
――差し支えなければ豊久自身が佐和山に赴き、旗指物を渡しても良い。と
しかし文をだしても一向に返事は来なかった。
元はと言えば自分にも非があるというのに、豊久の機嫌は日に日に悪くなっていった。
義弘から薩摩の屋敷に来るようにと言われたのはそんな折である。
指示通り薩摩に赴けば、義弘から一通の書状を渡された。
「これを井伊殿に渡して欲しいのだ」
「井伊殿にですか?」
悩みの種である直政の名が出て豊久は驚き、表情を曇らせた。
「伯父上、あの時井伊殿と何を話されたのですか?」
「…言えぬ。井伊殿と約束を違えることは出来ぬ。」
豊久は益々疑念が膨らむのを感じた。
しかし義弘の言葉に背く選択肢は豊久にはない。
豊久は「承知しました」と頭を下げて退室した。
なぁーご、と傍で二人を見守っていたオニぼんたんが鳴く。
義弘は戦友の頭を撫でながら、外を仰ぎ見た。
「許されよ、井伊殿。貴殿から受けた恩、決して忘れられるものではない。だが肉親の情を捨てることはわしには出来ぬ」
空は黒く濁った雲に覆われていた。
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