寒さが身に堪えた。
春の陽気さえ感じ始める薩摩とは違い、その地は未だ寒さが厳しかった。元々温暖な気候の中で育った豊久にとって、その寒さは過酷な朝鮮での戦いを思いださせた。
自然と足取りが重くなるが、それでも佐土原の城でただ鬱屈しているよりは遥かにましである。
長い長い旅路を追え、佐和山に到着すると予想だにしない人物が豊久を出迎えた。
「石田殿…?どうして貴方が此処に!?」
そこに居たのは前佐和山当主であり、関ヶ原で西軍総大将を務めた石田三成であった。
関ヶ原後は家康と和解して三成は表舞台から姿を消している。どこかの屋敷に蟄居しているならいざ知らず、北陸と京を結ぶ要所である佐和山に堂々と三成が居るのはおかしい。
豊久の問いに三成はいかにも困ったという顔をした。
「ああ、やはり馬と入れ違いになってしまいましたか…」
「石田殿。答えて下さい。貴方が何故ここに?」
豊久は訳のわからない焦りに胸を焼かれるのを感じた。
三成は真っ直ぐに豊久に向き直る。
「豊久殿。実は…俺は井伊殿に頼まれて此処にいます。佐和山も今は俺が臨時で治めています」
豊久は目を見張り、彼独特のこちらの心の中を見透かすような視線にたじろぐ。
そして三成は言った。
「井伊殿は此処にはいません。井伊殿はもう政務をこなせるような体ではないのです。今は…愛宕屋敷で療養されています」
豊久は無言で立ち竦んだ。
薄っすらと雪化粧が施されたその屋敷は、静謐な空気で満ちていた。白い視界に寒椿の赤がやけに鮮やかだ。
その屋敷の廊下を豊久は大股で歩き乱暴に襖を開けた。
刃より鋭い目つきで主を睨みつける。
それに対して布団の上の住人になっていた男は、憎憎しい笑顔で豊久を迎えた。
「おお!良く来たな、島津!」
豊久は今にも殴りかかる勢いで直政の襟を掴んだ。
恫喝するような低い声を出す。
「何故、病のことを言わなかった…!?」
直政がきょとんとして首を傾げる。
「? 言っただろう?『供に療養中の身同士、手を取り合って仲良くやろう』って」
その飄々とした様子に、かっとなって豊久が怒鳴る。
「こんなに酷いなんて聞いておらん!」
直政は一目で病人とわかる顔色だった。体も一回り細くなっている。
彼は頭をかいて罰の悪そうな顔をした。
「それはまぁ…義弘殿にも口止めを頼んでいたし…」
直政が病床に伏したこと、その代わりに三成が佐和山城主を務めていることなどはすべて豊久の耳に届かぬように義弘が情報を止めていたのだろう。
豊久は生まれて初めて尊敬していた伯父に怒りが沸き立つのを感じたが、同時に己のはたすべき役割を思い出した。
「ふん!その伯父上からの書状を受け取ってきている」
直政には言いたいことが山程――本当に山程あるのだが、まずは片付けなければいけないことがある。
豊久は懐からだした書状を渡す。だが、直政は受け取った書状を目の前で広げると怪訝な顔をした。
「…島津。これが本当に義弘殿からの書状なのか?間違いではないのか?」
「ふん。何を疑っている?」
「だってなぁ…、これ白紙だぞ?」
ほら、と言って見せてきた書状に豊久は絶句した。
それは宛名以外何も書かれていない白い紙だった。
「…莫迦な。私はこれを確かに伯父上から…」
直政は豊久の様子に得心が言ったように頷いた。
「なるほど…つまり義弘殿の意図は書状ではなく別のもの…という訳だな」
ちらりと直政が送ってきた視線に豊久も悟った。義弘は書状ではなく豊久を直政の元に運んだのだ。
敬愛する伯父上の仕打ちに、豊久は憮然とした。
しかしこの際だ。言いたかったことをこの男にぶちまけてしまおう。
直政はそれを察したように、ぽりぽりと頬を掻きながら言った。
「ええっと…島津。俺に言いたいことがある…よな?」
「無論だ。まず、――どうして私の文に返事を寄越さなかった。文は届いていたのだろう?」
「うむ。確かに届いていた。返事も書いてはいたのだが…その、なぁ……」
「…まさか返事とはそれか?」
豊久は直政の枕元に置いてあった文を指す。広げられた紙の上に綴られている字は童が書いたように拙い。
指摘すると珍しく直政は苦笑を浮かべた。
「悪筆すぎるだろう?左手で書いているのだが、どうにも要領がつかめなくてな。困ってるんだ」
「…左手?」
呟いてから豊久ははっとした。
「まさか右手が…」
豊久は閨で見た彼の右腕を思い出した。そう、腕に巻かれていた白い包帯が暗闇の中にぼんやりと浮かんでいた――。
「うむ。もうほとんど動かん。普段は代筆を頼んでいるのだが、お前からの文は自分の手で書こうと思ったのだ。だが、こんなことなら代筆を頼むべきだったな。文を出していればお前もこんな所まで来ることはなかっただろうに。すまなかったな」
豊久は胸が詰まった。
利き手が使えない。ならば直政はもう武士としては――
「…莫迦な。ならばどうして瑚楼草を私に渡して来た。自分で使えば良かっただろう!?」
「俺はもう長くない。薬草ごときでどうにもならんわ」
頭を殴られたような衝撃が走った。
豊久はゆっくりと、押し殺した声で尋ねた。
「…原因はすてがまりの時に私がつけた足の傷か」
「違う」
直政は即答した。
「先の戦で落馬したときに運悪く臓腑を痛めてな。少しずつ腐り始めているようで、医師殿の見立てではもって半年だそうだ。本当は…お前に隠しておきたかった。病にやつれた俺ではなく正義を貫く生き生きとした俺を覚えて欲しかったのだ。まぁ落馬が原因とはなんとも情けないものだしなぁ…」
そう言うと珍しく直政が溜め息などをついた。もう長く会話をすることすら辛いのかもしれないと思うと信じられなかった。
直政はすでに自らが死ぬことを前提に話している。
豊久は呆然としながら、半年、と口の中で小さく呟いた。
そしてふいに今の直政の言葉と忘れていた記憶が重なった。
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