カチッカチッとボールペンを鳴らして、レポート用紙にペンを走らせる。
年が明けて大学は期末テストシーズンに入っている。豊久の学科はテストよりもレポート課題が多く、豊久も毎日レポート制作に追われている。
しかしファミレスのコーヒーを胃に流しこみながら、豊久の思考はレポートの提出期限より先に飛ぶ。
このテスト期間が終われば二度目の長期休暇。その休暇が終われば進級だ。二年に今のような学科共通の科目はなく、きっと直政と会う機会はずっと減るだろう。しかも三年になったら豊久は実習中心の授業をとることになるのでもっと絶望的だ。
その推測は豊久を憂鬱にさせた。しかし「そんなのは嫌だ」と思うのに「なら、どうすれば良いのか」という先のビジョンがまるで浮かばない。
豊久は乱暴に参考書を閉じる。レポートへの集中力は完全に途切れてしまった。
もう家に帰ろうとした時、甲高いファミレスのチャイム音が客の来店を告げた。
豊久はぎょっとした。

…噂をすれば陰というのは何らかの科学的根拠があるのかもしれない。
厚手のブルゾンを来た直政と見覚えのある女性が中に入ってくる。前に正門で見かけた女性だ。彼女はファーつきの薄灰色のコートの装いで、かばんには大きなハート型のチャームをつけている。
彼らは店員に案内されるまま――なんとも間の悪いことに豊久の隣の席についた。席を立つタイミングを逸した豊久は、身を引いて仕切りの陰に姿を隠す。幸い(?)仕切りの高いデザインの席だっため、豊久の姿は彼らには見えなかったようだ。

――やっぱりつきあってたのか…?

女連れの直政と対面するのに微妙な気まずさを覚えた豊久は、仕方なしに閉じた参考書を再び開き、とうに冷めたコーヒーのカップを手前に寄せた。
しかししばらくしない内に、隣の席の様子の雲行きが怪しいことに気づく。
飲み物が運ばれて来たのに会話はなく、仕切り越し緊迫した固い空気が伝わってくるようであった。

――別れ話か?

そうであれば良いのにと、瞬時に思った自分に豊久はうんざりする。
沈黙を破ったのは彼女のほうだった。

「なんで嫌って言わないの?」

声は思ったよりはっきりと聞き取る事が出来てしまった。
直政は少し疲れたような声音で答える。

「嫌じゃないから」
「…本当に?」
「うん、本当。」
「…嘘です。だって時々部屋で泣いてるじゃない」
「泣いてなんか…!」

直政がムキになったように反論する。
――久しぶりだな。直政がこんなに感情的になるのは。
咄嗟にそう感じた自分にさらに驚く。
久しぶり、とは何だろう。彼はまっすぐで、馬鹿で、自分の感情を素直に表す性質のはずなのに…
仕切りの向こう側で一つ溜息が零れた。

「俺は今の状況を納得して受け入れているから。でも大丈夫、貴方の邪魔はしないよ。――かあさん」

会話の最後の単語に、豊久はコーヒーを吹きそうになった。
――母さん。
あっ!と豊久は一つ思い出した。そういえば大学にあがるちょっと前に、直政の父親が年若い奥方を迎えたと近所で噂になっていたのだ。
だがしかし、こんなに年の離れた――むしろ直政との方が年の近い幼妻だったとは驚きである。
とうの彼女は、怒気をあらわにした。

「そういう問題ではありません!!私はこれ以上黙って見ていられないのです!貴方は・・・貴方だって本当は間違っていると気づいているはずです!!」
「落ち着いて、勝子さん」

まくしたてるような声は大きく、まばらとはいえ客の注目を集めてしまっている。
少しの沈黙のあと、彼女は抑えた声で続けた。
――そして幸か不幸か、その言葉はしっかりと豊久に届いてしまった。

「……どう考えても不自然でしょう?いくら血が繋がっていないからと言って、父親と息子が体を結んでいるなんて」

何を言っているのかわからなかった。

豊久は何度も何度も彼女の言葉を反芻し、やっと把握した時には驚愕のあまり腰を浮かしそうになってしまった。

豊久は動揺をおさめようとぎゅっと手を握り、拳を額にあてて息を吐いた。しかしその動作の微かな振動が伝わったせいか、テーブルの端にたてられていたメニュー表が一枚落ちてしまった。
豊久の体が硬直する。
拾わなければ――しかし、自分の姿が、
見られてしまう。

だが悩む時間は多く与えられなかった。隣で動く気配がする。
心拍数があがる。


「これ、落ちましたよ」


軽い調子でこちらの席を覗きこんできた顔は、次の瞬間凍り付いた。


「…豊久」


数年ぶりに名前を呼んだ友人の顔は、まるで敵を見るように強張っていた。





10.1.11



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