がしゃん、と鉄柵が揺れる音が夜空に響いた。
「楽勝!」
「…セコムが鳴ったら、どうするつもりだったんだ?」
「俺は正義だからな。平気に決まっている!」
軽々と校門を乗り越えた直政が自信満々に言い放つ。豊久は呆れながら、同じように校門を乗り越えた。
二人が卒業した中学校である。卒業してから一度も足を運んでいないそこは記憶よりもいくらか小さく狭いという印象を抱かせながらも、記憶と同じものがあり続けている。銀色の四角い枠の時計の上に校章を掲げる校舎も、左上の角が削れたサッカーゴールも、途中で色が変わる運挺も、――パウンドケーキのような形をした体育館も。
「懐かしいな」
「・・・嗚呼」
否応なしに郷愁がこみ上げて、あの頃の想いと今の想いが混じりあう。中学の頃まではずっと一緒だった。中学の頃まですっと一緒に過ごしていた。
校庭は白い雪に覆われている。つい先ほどまで降っていた雪はもうやんでいた。
「なぜ、あんな事をした?」
厚い上着を纏う背中に静かに問えば、直政は歩みを止めた。
「――全部俺が決めたことだ」
直政は鉄棒の上に乗る雪を払い、腰掛けた。
逃げも隠れもしない真っ直ぐな視線を豊久に向ける。
「…俺が、耐えられなかった。お前に父さんとの関係を持つことを知られることが……俺だって一般的にそれがどういう目で見られるかわかっている。この話を持ちかけてきた父さんをお前がどう思うか――それが怖かった。耐えられなかった。よりによって他でもないお前が父さんを否定するところなんて、見たくなかった。そういう俺の勝手な願いが発端だ」
すべての非は俺にある。
直政はそう言葉を結んだ。
それは、なんとなく予想していた通りの答え。
実を言えば、直政の相手は父親なのではないかという考えが全く浮かばなかった訳ではないのだ。だがその度にいくらなんでもと常識で否定していた。
気づいておくべきだった。尊敬する父親を否定されたくないと考えるのはいかにも……豊久が良く知る彼らしい考えだ。
豊久は苦々しく眉を寄せる。
「相手はお前の父親だぞ。本当は嫌じゃないのか?」
「嫌じゃない。父さんのことは尊敬しているし、好きだし。血のつながっていない俺を育ててくれた恩もある」
「だからと言って!」
「…――俺の家はな。なかなかの名家なんだ」
ぽつりと彼の呟いた言葉に、豊久は言葉を噤む。恐らく彼は誰にも話したこと名のない話を自分に語ろうとしている。
直政は鉄棒の上でぷらぷらと宙に浮いた足を揺らし、白い息を吐く。
「ああ、今の家じゃない。俺を産んだ母さんの家だ。その家には遺産もたっぷりあってな。両親が事故で死んだ後、下品な連中が舌を腐らせるような言葉を吐きながら俺に寄ってきた。五歳にもならない子供から遺産を巻き上げようとは、悪役の手本のような連中だ。自分の力で稼ぐ力もないくせに、人の金を貪ろうとする無能な人間。あんなのが親戚かと思うと俺は恥ずかしくてたまらん」
直政は少しおどけた口調で言う。だがその手のひらに筋が浮き立つほど、きつく鉄棒を掴んでいた。
「父さんは…血の繋がらない父さんだけが俺を守ってくれた。遺産を相続出来るように名字を変えないまま俺を引き取って育ててくれた。父さんに引き取って貰わなければ俺はどうなっていたか・・・」
父さんは。と、言葉を区切ってから直政は鉄棒から飛び降りた。
「……俺の母さんのことが好きだったんだ。それなのに母さんと他の男との子である俺を引き取ってここまで育ててくれた、愛してくれた。一人の子供を育てるのがどれほど面倒で金がかかることか、知っているか?そうだ――俺に母さんの代わりがつとまるのならそれで良いじゃないか!父さんにだって、多少の見返りがあって良いはずだ!」
直政が吠えるように言い放ち、鋭く睨んでくる。
守りに入った彼がこんなにも頑なだったとは。知らなかった彼の側面。
豊久は苛立って仕方がなかった。直政はずっと父親の側に立って意見している。こちらが何かを言えば、猛烈に反論して父親を庇う。
豊久にとってこの状況が面白い訳がない。
長い長い沈黙が訪れた。
静かで誰もいない校庭は、まるでこの世界に二人だけが存在しているような錯覚に陥らせる。
豊久も直政も敵を見るように、睨みあっている。
まるで刀を携えた死合いのように緊迫した空気を破ったのは豊久の方だ。
「どうしてあの大学を選んだ?」
「えっ?」
豊久の言葉に直政は虚を突かれたように、目を丸くする。
だがすぐにいつも通りの軽い調子で応じた。
「だから、言っただろう。家から近いから」
「嘘だな」
断定した豊久に、直政はわずかに焦りの色を滲ませる。
「嘘じゃない!俺は本当に」
「直政――俺にこれ以上嘘を言うのか?」
その口調は詰問というほど尖ったものではなかった。むしろ豊久にしては柔らかな、諭すような口調であった。
しかし直政は射竦められたように、びくりと体を震わせた。
瞳が揺れ、あっ、と心許ない細い声を漏らす。
直政もわかっているのだ。
その理由がいかに不自然で説得力に欠けているのか。
すでに中学の頃から今の大学に進学することを決めていた豊久同様、直政も自らの進路を早くから定めていた。「将来父親の役に立てる進路を」強い意志で難関の高校に合格し、毎日僻地まで通っていた直政である。その彼がさほど有名でもない地元大学に進学――周囲で引き留めたものはきっと一人や二人ではない。
瞳を揺らしながら繕った笑み浮かべて、直政は否定する。
「違う…違う!……いや、そんなに知りたいのなら本当のことを教えてやる。父さんと一緒にいられるからだ。今の大学なら父さんと長く一緒に生活出来るから……」
「直政!」
豊久は鋭い声で直政を窘めた。
この男に似合わない嘘を吐かせるのは、もう嫌だ。
直政はまたびくりと身を震わせ、ふるふると首を振る。
「あ……あ…」
か細く怯えた声を漏らしながら、一歩二歩と直政は後退する。その姿はとてもいつも生気に満ちている直政とは思えない、今にも壊れそうな危うさがあった。
豊久は直政の腕を掴み、ぐいと力強く引き寄せた。
眼前に広がる追いつめられた子犬の如き顔。
「直政」
豊久は静かに彼の名を呼び、何かを促すように、彼の目尻のあたりを何度も撫でた。
その指先の暖かさに、ついに直政の顔がくしゃりと歪む。
「ぁ………会い、た……かっ、た。…ずっと……豊久に会いたかった…!」
それは絞り出すような、慟哭。
己の頬に添えていた豊久の手をぎゅっと強く握る。
「話をしたかった、笑った顔が見たかった、名前を呼んで欲しかった、一緒に食事がしたかった、そばに…お前のそばに居たかった……!父さんと寝るのは本当に辛くなかった。ただお前に会えないことが、会えないことだけが辛かった……!」
ずっと会いたかった。
お前の名前を呼びたかった。返事が、欲しかったんだ。
お前が欲しかったんだ。
直政の想いが堰を切ったように溢れ出す。
ぽろぽろと涙が澄んだ瞳からこぼれる。
父親を庇う時はあんなに頑なだったものが、哀れになるほど脆く崩れてしまった。
豊久は強く腕を引き直政を抱きしめようとした。だが、直政は激しく抵抗する。
「やめろ!俺にそんな資格はない!!」
豊久は有無を言わさず彼の顎を掴み、視線を絡めた。
「直政、俺も同じだ。俺も、ずっとお前に会いたかった。そばにお前がいなくてずっとずっと……寂しかった」
直政の目が大きく見開かれる。
その拍子にまたぽろりと一滴の涙が落ちた。
再度力を入れれば今度は大人しく腕の中に収まった。彼の体温を確かめるように強く抱きしめれば、おずおずと直政の腕も豊久の背に縋る。
「…あの時、お前をあんな方法で遠ざけたのは」
肩口からくぐもった声が聞こえる。
「離れる前に豊久に触れたかったからだ。触れて欲しかったからだ」
「同じだ。俺もお前に触れたかった」
豊久は寒さのせいか、嗚咽のせいか赤くなっている直政の耳に口を寄せる。
「俺はお前が――」
それはこれまでの想いを示すにはあまりに短い一言。
だがその一言を耳に吹き込めば、ぎゅっと豊久の背に回った腕に力が籠もる。
それからはにかんだように笑って「俺も同じ」と直政は返答した。
だがその答えを聞いた豊久は――長々しくため息を吐いた。
せっかく念願の片恋が成就したというのに、豊久は眉をしかめてこれ以上ない凶悪な仏頂面を見せる。
「…ふん、随分遠回りをした。お前のせいだ。……だいたい自己犠牲で何が解決する?お前はいつもまでヒーロー気取りのつもりだ?そもお前は自分に悲劇のヒーローなど似合うなどと思っているのか?おこがましくて話にならん、そうやっていつもお前は……」
告白の直後、のはずである。
だが、豊久はくどくどくどと説教を開始した。
きょとんとした直政であったが、次第に嬉しそうに豊久の言葉にうんうんと頷き始める。幸せそうに笑う姿は「もっと言ってくれ」とせがんでいるようでもあった。
お説教は抱擁をとかないまま、日付が変わるまで続けられた。
そしてさすがにもうそろそろ……と身を離そうとした時、二人は異変に気づいた。
長時間寒い中同じ体勢でいたせいか――膝が固まってしまっている。
思うように動かない膝に、まず直政が爆笑し、豊久も耐えきれず吹き出した。
それから
二人はやっと二度目のキスをした。
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10.2.28
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