扉を開ければ教室にはまだ誰も居らず、がらんとしていた。
豊久はホッとして席につく。
その直後、ばたばたと廊下を走る音が響き勢いよく扉が開いた。

「今日こそ教室一番乗り!・・・って、あぁまた負けた!!」

悲痛の声をあげながら、直政はよろよろと席に座った。

「うぅ・・・なんで毎回負けるんだ・・・・・・島津は来るのが早すぎる!!」

直政は悔しそうに文句を垂れる。
学校に前日入りして入学式会場一番乗りしようして、うっかりベンチで寝過ごしてしまった一件以、来直政の「一番乗り」への執着には拍車がかかっている。

「うるさい。俺は講義の予習のためにあらかじめ早めに家を出ているだけだ」

そういうと豊久はテキストを開いて、黙々とノートにまとめていく。
すぐに沈黙に耐えられなくなったのは直政である。彼はごろごろと顎を机の上で転がし、なあなあと豊久の気をひくように声をかける。
直政は昔から体がモゾモゾする程沈黙が苦手なたちだった。

「細川先生の授業とったぞ。結構面白い先生だった」

豊久のペンが止まった。直政と豊久の学科は違う。今ここに二人がいるのは、ここでじきに始まる授業が週に1回の全学科共通授業のためだ。学年があがったら他学科の授業も履修できるので、直政の情報は聞くに値した。

「面白いか」
「うん。講義が30分で、あと一時間は奥さんのノロケ」

豊久は急速に興味を喪失した。
再び字を綴る豊久に、直政はねぇねぇねぇ!とすり寄るようにして、あの手この手と話題をふっかけてくるのだった。


――二人は三年前のあの出来事に触れずに過ごしている。
不思議なことにあれほど激しく憎んでいた気持ちはなりを潜めて、このままあの日のことなど無かったことになれば良いのにと豊久は思っていた。裏切りも、愛憎もない友人の関係に戻りたい。とるに足らない他愛のない会話を続けてたい。

この男を何よりも、憎んでいたはずだった。
酷い男だ、見下げた男のはずだ。
しかし実際に再会して豊久の胸をよぎったのは途方もない懐かしさと、狂おしい愛着で。
そんな自分に豊久は愕然とした。あれほど手酷く踏みにじられておいて、自分は一体何を考えているのだろう。
まるで己自身がまったく得体の知れない生き物になってしまったような感覚に陥る。
だが直政の傍は酷く居心地が良かった。教室で自分の方にまっすぐに向かってくる彼に、豊久は途方も無い喜びを密かに覚えていた。(逆に自分から直政のそばに近づくには躊躇いを感じるため、この授業は早めに来るようにしている)
直政が自分のことを名字で呼んでいることに昔とは違う距離を感じながらも、豊久は今の関係に満足していた。

あの時のことなんて無くなってしまえば良い――豊久は切実に願っていた。


予鈴が鳴った。前の授業が終わった知らせに前後して、扉がせわしなく開閉し学生が次々に着席し始める。
その中の1人がこちらに歩いてきた。

「あぁ、井伊。おはよう」
「おぅ! おはよう!」

知り合いらしい学生に直政が振り返って挨拶を返す。
その様子を見るともなしに、見ていた豊久は気づいてしまった。

彼の後ろの首筋に薄っすらと咲く、小さな紅い花を。




09.12.13

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